☆いい女☆で行こう!

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やさしさと、その入口のむつかしさ2
の知り合いに、ファッションモデルの女性がいるが、彼女はとてもうつくしい上にやさしい人なので、街に出るとたいていおばちゃんに狙われてナンパされ、いつもあれこれオゴられて帰ってきている。
「やさしい」というのは徳性だが、この徳性があるとないとでは、生きる世界はそれぐらい変わるわけだ、それがこのブログや本サイトで僕が話していることの元々の原点であって、本筋は何も変わっていない。
「やさしい」というのは、キモチや善意の問題ではなく、胴体の具体的な問題だ、そしてその胴体はカルマに縛られていて、このカルマの償却に向かおうとするとき、「言葉」が償却の方向であり、「呪い」が安全装置なのだということまでわかってきた。
安全装置をオンにしたままでは、機構は動くはずがないが、かといって安易に安全装置を取り外すと、その人は楔(くさび)を失い、「偏り」のほうへスーッと吸い込まれていく/たとえばこれまで「我慢」を続けてきた人は、その偏り、「吾我驕慢」のほうへスーッと吸い込まれていく(もともと「我慢」とはそういう意味だ)、安全装置がなければあっさりそんなものだ(自己神格化に吸い込まれる人もあるし、「オバケ」に吸い込まれていく人もある)。

だから、たとえばいわゆる「いい人」というのは、「やさしい人間であろう」というキモチを呪とし、自分をそこにピン留めしてあるような状態だ、だからこのピンを外すとまったく別のところに吸い込まれていってしまう。
すべてのピン留めをぶっこぬいた上で、「笑顔」のところにビターッと重なり、「わっはっは」となっている人と、「笑顔」のところにピン留めして、「うふふっ」となっている人は、まったく別モノなのだ、同じ「笑顔」のところにいるのだが、前者は自由の中にあり、後者は呪縛の中にいる。
カルマの償却というのは、己の学門と行いの蓄積によって、そもそもの土台の「傾き」を消去することだ、傾きが消去されていくと、たとえば目の前に裸の女を置かれても、そちらへスーッと吸い寄せられることがなくなる(傾きがないのだから)、これはピン留めで呪縛されてそちらへ吸い寄せられない、ということとは性質が違う。
そして、「やさしい」というのは、その「土台」(身)を、しっかり触れさせてつないでくれるのではあるのに、「こちらがどれだけ傾いても、この方は傾かないでいてくれるわ、不思議」という状態だ/そして本質的に呪いに与しない人は、この「やさしい人」と接触したとき、決まって「負けたわ」という感動を覚える、一方で本質的に呪いの側に与している人は、まず自分も「やさしい人」と同列にいるのだと満悦し、その幻想が引き剥がされそうになると、なんとかして相手の土台を傾けられないかな? という発想へ爆発的に転じる、以降は自動的にその隙を窺って牙を研ぐようになる。

呪いの人は、すべてが「グサッ!」中を生きている/すべてが「ピン留め」だから。

同じ言語を用いても、それが「グサッ!」という性質を持つとき、それは呪なのだ、「グサッ!」は血に届いている、そしてひずみが起こるたび、ピン留めによって動かずには済むが、そのピン留め部分には痛みが起こっている、その痛みによって僻みが蓄積していく、これが「血と僻み」という安全装置の代償だ、そして全身が「血と僻み」に染まっている人は、言語であれ眼差しであれ、表情であれ振る舞いであれ、人に向けて「グサッ!」しかできなくなる、だからその人は、どうしたって「やさしい」ということにはなれない。
なかなかタチの悪いことだろう? 誰も「グサッ!」なんかしたくないのだ、しかし「偏りがある」ということは「ピン留めするしかない」ということであって、ピン留めするということは「グサッ!」とやるしかないということなのだ/ここまでタチが悪いと、逆にいっそリアリティがある、われわれを支配している仕組みは、これぐらいタチが悪いのがいかにも妥当という感じじゃないか。
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