☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
<< 身近な「呪」と、縁遠い「言葉」 | TOP | 魂魄分離論 >>
自分に課したルールが「キャラ」だ
クサーは第一にブン殴る、剣道家はブッ叩く、ランナーは突っ走る、それが「ルール」だ。
あなたは人に接したとき、第一に「どうする」だろう、ブン殴りはしないし、ブッ叩きもしないし、急に突っ走りもしないだろう、それはあなたとその場所がボクシングではないし剣道場でもないし競技場でもないからだ、あなたはスポーツ的なルールの外側にいる。
じゃああなたは、人と接したとき、どういう「ルール」で動くのだろう、そのときあなたの「自分に課しているルール」が、あなたの「キャラ」になる/接客業なら接客業、営業マンなら営業マンの、「ルール」で人に接するように、あなたはあなたの「キャラ」で人に接することになる。
ルールは呪いで形成されているので、つまり、あなたのキャラは、あなたの「呪い」なのだ、これは呪いなので、「キャラ」をやめることはできない、キャラをやめようとしてもひたすら「動けなく」なり、同時に「何かが噴き出してくる」ので、やたらに苦しむばかりになる。

極端な話、トルストイが「キャラ」だったとは、さすがに思えない/それはトルストイが、呪の人ではなく言葉の人だったからだ。
一方で、三島由紀夫や芥川龍之介は、「キャラ」ではなかったのかと言われると、「うーんひょっとしたら……」という気がする(僕は正直なところ確信している)。
人々が、「陽キャ」や「陰キャ」に分類され、オカンが妙に「オカン」だったり、老人が異様に「老人」だったり、善人がわざとらしいぐらい「善人」だったり、スポーツマンがロボットのように「スポーツマン」だったりするのは、すべて「キャラ」なのだ、そしてキャラというのは呪いだから、自分でやめようと思ってもやめることができない。
「言葉」がなければ「世界」はなく、「世界」がなければ人には接しようがないから、つまり、「言葉」がなければ「キャラ」にならざるをえないのだ、この「キャラ=呪い」の性質によって、作り笑顔をやめることはほとんど不可能で、たとえ一時的に作り笑顔をやめられたとしても、初対面の誰かに接するときには必ずまたその「作り笑顔」が湧き出てくる、この「作り笑顔」はキャラの一部であって呪われたものだから自分で除去できないのだ。

「言葉」を持たない人は、「キャラ」にしかなれない。

「キャラ」が悪いというわけではない、むしろ単純に生きていくには、「キャラ」のほうが便利で有利ということさえあるだろう、ただ言葉を持たない人は永遠に「キャラ」でありつづけるから、どういじくっても「その人」に出会うことはできない、そのことでやがて苦しむのかどうかは僕にはわからないが、重要なことは、それが呪であるということで、自分の精神で始めたものでもなければ、自分の精神でやめられるものでもないということだ、思われているよりはるかに根の深い血と僻みの力が掛かっている。
言語が魂に入らないとき、言語は言葉にならず必然的に呪になるのだが、この呪が「キャラ」を形成していく、このことは実は他の動物を見れば明らかだ/他の動物で「キャラ」をする存在はないのだ、人間だけが言語を持っているので、人間だけが「呪」によってキャラを形成する。
正しく見ないとな | comments(0) |
コメント
コメントする










| /PAGES |