☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
<< (言葉) | TOP | 今日は「余韻法」をやりま〜す >>
僕が自分をクソ呼ばわりする理由

オウム真理教の、事件の首魁ら七名について本日、死刑が執行されたらしい、もう何年前になるのだろうか、「地下鉄サリン事件」があったのは1995年だ、当時まだ僕は高校生だった。
死刑囚に、死刑が執行されるのは当たり前だし、僕は死刑廃止論者ではないが、「先ほど命を取りました」と言われると、なんというか、恐れ多い気持ちになる/少なくとも、「死刑になるだけのことをしたのだから当然でしょ」と、傲然と言い張ることは僕にはできない、血で血を贖うリアリズムの近傍で、さすがに悠々と深呼吸できるほど僕は頑丈な人間ではない。
今になって、いくつかの元オウム真理教の映像を見ると、「麻原彰晃」と呼ばれていた首魁は、ヨーガ的に無能では(まったく)なかったことがわかる、単なる芝居ではああいう目つきや手つきにはなれないからだ/元オウム真理教はヨーガ集団として無能ではなかったのだ、むしろあそこまで徹底的にそれをやってみようとした集団は他になかったという見方もありうる(むろん、それが何の免罪になるわけでもない)。
僕も経験上思うが、つまりヨーガなんて、健康法としてなら健全であっても、それ以上のことに深入りすべきではないのだ、ヨーガというのは本当に「効果がある」のだ、それも思われているよりも「あっさり」と、これがまずい/これまで視えていなかったものが視えてきたり、本当にしてしまう、それは厳密に正しい道筋につながっていないと、人をとんでもない行方不明の森へ連れて行くだけになるのだが、それを「厳密に正しい道筋」につなぐということが、そもそもすでに非現実的なのだった。

オウム真理教の事件以来、人々は健全に、そういう「ヤバい」「電波」なものには決して踏み入らないよう、決定的な定義を獲得したと思える/つまり「オウムっぽいw」といえば、人々はいつでも冷静になり、健全なほうへ帰ってこられるということだ、これは事件以降われわれに残された財産のひとつだと思う。
それにより、人々は、極端な国粋主義にも入り込まなくなったし、極左に流れる人もほとんどいなくなった、それはとても健全なことだと思うが、その代償として、「クリスマスの不思議な空気」「正月の不思議な気配」「神社の不思議な風」「寺院の不思議な匂い」というような、「非日常」のすべてからも切り離されてしまったと思える/だから今は、恋愛にしても仕事にしても、セックスにしても芸術にしても、歌にしても踊りにしても、人の声や言葉にしても、何の「不思議」もない、ひたすら「日常」に括り付けられたものとして人々に課されている、与えられているというよりは課されているのだ、われわれは生きているあいだに一度も「不思議な次元」に到達することがない。
この、「不思議な次元に到達することは一度もない」と固定された生が、どうやら思ったより苦しいらしく、人々はその苦しさと絶望感からの逃避として、神秘主義へ傾倒することや、自分の願望を妄想にまで上昇させることを、やめられなくなっている/僕の言い方でいうと、オウム以降、人々はフィクション世界との接続が断たれたため、空想を妄想に信じ込むことがやめられなくなっているのだ、アイドルやアニメに異様な幻想と没入を持つ人が多いのも、ノンフィクションでの窒息が限界にきていることの反動から生じている。
僕だって今、ワークショップ等をやっているが、そういうことをやっていると、どうしても「不思議な空気」というのは生じてきてしまう、そうなると、これまでそういう経験がなかった人は、何か脳みそがグラグラになるのだ、不思議な空気の中で何かが「視えてしまう」というのはどうしてもそういうことになる/ただここにおいて、僕がオウム的なものと異なるのは、習いに来た人をわざわざクソ呼ばわりすることだ、なぜクソ呼ばわりするかというと、僕がこれまで、自分自身をクソ呼ばわりしてきたからだ、これじゃあ「教団」にはなれっこないな。

オウム真理教は信徒に苛烈だったが、信徒に「過労死」は出ていない。

悪名高き「オウム真理教」だったのだから、修行と称して、力ずくの苛烈な行為はいくらでもあっただろう、その中では死人も出たかもしれないが、それは「過労死」ではない/「過労死」はいわばノンフィクションの極限で生じる呪殺だが、過労死だって苛烈で笑えないものだ、そのことを踏まえれば、われわれは元オウム教団を単に狂った集団として笑い飛ばすことはできない、われわれが生きるということはどちらにしても危ういことなのだ、フィクションにもノンフィクションにも、われわれは狂ってしまえる。
本当には何があったのか、しょせん外部のよそ者にはわかりっこないのだろう、さしあたり死刑執行のニュースは、どれだけ正当なものであっても、僕に正義の歓喜など与えることはまったくなかった/だから、本当には何があったのかなど、わかりっこないことに興味を持つことはやめて、僕は少しでもマシに生きようと思うのだった、それはつまり、引き続き僕自身の「クソ呼ばわり」を続けていくということだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
コメント
コメントする










| /PAGES |