☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
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今日は「余韻法」をやりま〜す
、今日は東京、19時から雨が降るのか止むのか、本当にビミョーだな。
ううむ、前線は北へ逸れると信じて、とりあえず強行だ、世田谷公園にいこう、どうせ今からでは19時代のスタジオは取れないし、そんなに本格的にやるのも面倒くさい、公園でやりましょ。
小雨なりでも降るかもだから、今回は金魚法だけではなく、余韻法も用意していこう、余韻法は新しいワークだ、まあこれは例によって「で、できね〜」というワークになるが、そうして「できねー」やつほど、実現すべき本質に近くにある(当たり前)。
たとえば手のひらをパンと打ち鳴らすだけでも、フィクションとノンフィクションの分岐点が生まれるのだが、この分岐点で、自分も分離されて並行に機能を続けねばならないのだ、前に言った「魂魄分離論」というやつ、ここが分離並行で機能しないと、一方は「現実〜」に偏り、一方は「空想……」に偏ることになる、この差異は目の前で実演されたら一発でわかる。

思えば、今やっているワーク群は、すべて「分かれ目」にばかり注目していることになる、その分かれ目を「実際に自分でやってみよう!」というやつだ、われながらシンプルでよろしい。
そして、ある意味予想通りのことではあるが、この「分かれ目」を実際にやってみると、多くの人はけっきょく、その分かれ目が「きらい」なのだ、むしろアンチとなって、その「分かれ目」なるものを壊しにかかりたくなるという現象が発生する/この現象については僕は口出ししない、それはワークの問題ではなく人それぞれの選択の問題だからだ。
なぜ「分かれ目」に対するアンチが発生するかというと、いわゆる自己愛があるからだ、人は自分の囚われる「現実」と長年付き合っており、その執着を「わたし」にしている、そして一方で、現実を紛らわす「空想」にも、長年の思い入れを持っている、「分かれ目」の方法はこの両方を同時に消失させてしまうから、いくら正しいにせよ、人々は否定と攻撃に傾くのだ/他人がやっていることについては、その「分かれ目」が正しいと見えるのだが、自分がやるとなると、その「分かれ目」はとってもイヤなのだ、これはむしろワークに取り組む上での大前提といえる。
手のひらをパンと打ち鳴らした直後、ノンフィクション側では「時間が流れ」、フィクション側では「余韻が残る」ことになる、こりゃどちらとも「当たり前」なのだが、この両方に同時につながっていくとき、まったく別のことが起こる/まったく別なことが起こるぶん、これまでにあったいつものこと、つまり「わたし」という吾我が消えてしまう、このことが許しがたいので、多くの人は否定に転じるのだ、それは別に悪い選択ではない(が、僕の指示するワークではない)。

誰でもできるが、「わたし」にはできない。

これは「誰でもできる」ものなので、逆にいうと、あなたがその「誰でもできる」を身につけないといけない、ということになる/「わたし」のやつをやりたい人は、それは「わたし」にしかできないやつなので、「誰にでもできる」のやつではないはずだ、ここを取り違えていると永遠に時間の無駄になってしまう。
これは「誰でもできる」のやつなので、言ってみれば、「みんなのやつ」なのだ、「わたしのやつ」ではなくてね、そして「みんなのやつ」より「わたしのやつ」が好きというか、そちらばかり大事な人は、ワークうんぬんに用事はない/手のひらをパンと鳴らしたとき、「時間が流れる」はみんなのやつだし、「余韻が残る」のもみんなのやつだろう、そこに「どう思うか」「どうイメージするか」などは、「あなたのやつ」だ、この「あなたのやつ」に注目するかぎり僕の話していることは何一つ伝わらないし、また本質的に伝わる必要もない。
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