☆いい女☆で行こう!

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「わかった」は学門の死
「わかった」「わかります」は、クイズに対する解決でしかない。
学門の生命は「なんでやろな」にある、「なんでやろな」は解決されるのだが、その解決は「ほえ〜〜〜なるほど〜〜〜」と与えられ、これが与えられると同時に、次の「ということは、じゃあ、○○はなんでやろな」という学門が与えられている。
それは学門が「進んでいる」ということだ、一方で「わかった」「わかります」というのは学門の死を意味している。
「余韻法」で、パンとやって、余韻の中で「ほらフィクションと世界」「魂魄が二重に存在しとるわな」とやると、「なるほど、たしかに!!」としか見えないのだが、でもなぜそうなるのかは「なんでやろな」のままだ、「呪縛」から解き放たれて「余韻」の側に入るとそうなるのだが、なぜそうなるのかについては「なんでやろな」が続いている、「なるほど」が進むと同時に「なんでやろな」も進み、学門というのは永遠に続いていく。

学門に対する食いつきがよくないといけない。
学門は、単なる知識ではなく、「ほえ〜〜〜」だ、たとえば食塩が水に溶けるのは、水が電気的に偏った液体で、その偏りがNaClのイオン結合をバラしてしまうからだが、水の構造式から見て「なるほど、ほえ〜〜〜」となるのが学門であって、「わかりました」と言い出すのは死である、おでこに「死」とでっかく書いておけ。
水がイオン結合をバラすのは、まだ「わかった」と言いたくなるかもしれないが、そこで「ん? じゃあ、飽和ってどういう現象なんだろう」と言い出すと、ただちに「なんでやろな」が再開されるので、「わかった」なんて意味がないのだ、「なんでやろな」の永遠連鎖が学門の生命だ。
帰り道、歩きながら、「くおりさんってこういうときどう歩いているんですか」と訊かれたので、「おれはそもそも歩いていないよ」と答えた、そして実演してみると「ほんまや、歩いてない」「ほんまに"何もしてない"」ということが確認された、それは僕が何か「わかっている」からではなく、唯々「なんでやろな」を続けているだけだ、僕が「何もしない」のは僕にとって「なんでやろな」だし、他の人が「何かしてしまう」のも僕にとって「なんでやろな」だ、これが「わかった」になる日は最低十億年はこない。

砂糖を舐めるとなぜ「甘い」のか、その「なんでやろな」さえ「わかった」には到達しない。

こんなものクオリア問題だから、「わかった」にはならないのだ、なぜ砂糖は甘いのに、石油を舐めても甘くないのだろう、それを「わかった」と解明できる人はいない、だが学門は進み、構造式と官能器の関係は解明されていく、解明されるごとに「なんでやろな」のレベルがあがっていくのであり、「なんでやろな」が消え去ることはない。
僕が説明したことを、「わかりました」といって練習しているうち、それが出来るようには決してならない、僕が説明しているのは「事象」であって、その事象は永遠に「なんでやろな」を含んでいる、だから「なんでやろな」のまま取り組んで、出来るようになっても「なんでやろな」のままだ、ただ「ここ」「ここでこう」「こうする」というのが掴めるだけだ、掴んだ上で「なんでやろな」は一向に変わっていない、ただそのレベルだけが進んでいく、この場合はおでこに生と書いてよろしい。
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