☆いい女☆で行こう!

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「不思議」ということ
リズムで太陽光を分けると、いわゆる七色に分光される、この分光を見たら「ほえ〜〜〜」と感嘆してよろしい/だって不思議じゃん。
「フシギね、うふふっ」となる奴がいたら、こいつはおでこに死と刻印していい、「うふふっ」はいらないのだ、どうして太陽光を分光してテメーが「うふふっ」なのだ? 二度と光の差さない世界へブッ込まれるぞ。
「不思議」というのは、テメーの「うふふっ、フシギね」感ではないのだ、「不思議」は「not 思議」ということであって、そりゃ太陽光がそれぞれの屈折率で分光されて七色になるのは、「思議とはカンケーねえ話だな」ってことだよ、それをテメーの思議でうふふっとしたら死だ。
「不思議」は「マジカル」じゃねえぞ、「不思議」は「not 思議」だから、「unthinkable」だぞ、その「not 思議」あるいは「out of 思議」が、事象として実在してしまう、これをどうしようということだ、どうするといって、どうしても「不思議」には変わりないのだけれども、not 思議のままそれを取り扱う、これを学門という。

胴体を向ける、気を向ける、人に向ける、コイツに向ける、そして「向ける」というのは「結合」に至らねばならず、結合に至れば「一緒くた」だ、それを実演すると「おお」「あ、なんかわかりますわ」「ここにいるとすっげえわかりますわ」となるのだが、僕は「な、ホンマやろ?」と言いながら、なぜそうなるのかは「不思議だなあ」なのだ、僕はなぜそんな事象が存在するのかは知らんのだが、その事象を起こすことだけはできるようになっている、それが「わかった」という日は永遠にこない。
僕のやっていることのすべては、そのように、「なんや知らんけど"こう"や」ばかりだ、ここでレベルがあがるといのうは、"こう"という感覚が精密化していくということであって、「わかった」が深まるということではない、何かが「わかった」ことはこれまで一度もない。
誰だってグーチョキパーでジャンケンをすると思うし、利き手の指で箸を使っていると思うが、それに先立って「手指の骨格および筋肉構造概論」みたいなものを勉強して、「わかった」の末にジャンケンしているだろうか? 「ジャンケン、ポン」というとき、その手は「ポン!」と出しているじゃないか、じゃあ何が「ポン」なのか、「ポン概論」を大学で履修した覚えはあるか、そんなはずはないだろう、なんや知らんけど「ポン!」であって、何も思議することなくその事象を我が身で実現しているじゃないか。
ジャンケンを「ポン!」と出すとき、人に向けて出しているはずだ、それのもっと高度なやつを、人に向けて「おりゃ」「おいっ」「ほうっ」「こうだ」「よっ」「ふんぬぬぬ」「びたーっ」と出すだけだ、そんなものに「わかった」も「わかりました」もない、なんでや知らんが「こう」であり「ここ」なのだ、不思議というのはそういうnot 思議の事実・事象のことであって、マジカル気分にうふふっの沙汰ではない。

どうやって二本足で直立歩行しているのか、わざわざ「わかっている」のか。

そんなわけはない、朝起きたら顔を洗いに行くとき、「よーし二足歩行だ」なんてスイッチを入れているアホはいない、二足歩行を思議している奴は二足歩行ができていないのだ、そして「二足歩行、フシギね、うふふっ」という奴も頭がオカシイ、人とつながるというのも、「よーし人とつながるぞ」というのは土台がおかしい、靴を履くときに「よーし靴を履くぞ」と思議する人は生活水準がおかしい。
「不思議だなあ」「不思議ですねー」というのはイイのだ、これはイイ反応だ、ただその不思議を思議で分解しないことだ、それを分解したところで「そうか、人は裸足で外を歩きたくないから、靴を履くんですね、足の裏が痛いし汚れますもんね!!!」というような、爆裂につまんねー意識化にしかつながらない/「不思議」のままでいいのだ、not思議、「靴を履いて外に出る」というのと、「人とつながって生活する」というのは同列のout of 思議でないとしんどい。
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