☆いい女☆で行こう!

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「できない」というすばらしいこと
ークショップの途中、「で、できね〜」「コンタクトできね〜」という人がいた/これはとてもすばらしいことだと思う。
なぜなら、率直に言ってアホちんは、そういうときに「むつかしいですね」と言うからだ。
この、「むつかしいですね」は、たいへんに鬼門であって、これが出てくる人は、基本的に万事が何一つ進まない。
この人にとっては、戦闘機の操縦も「むつかしいですね」だし、エベレスト登頂も「むつかしいですね」、トリプルアクセルも「むつかしいですね」、ダークソウルRTAで一時間を切るのも「むつかしいですね」、般若心経も「むつかしいですね」、ムーンウォークも「むつかしいですね」、ハーバードに入るのも「むつかしいですね」、三船十段の空気投げも「むつかしいですね」だからだ、それで本人の実力はというと、初代スーパーマリオもクリアできないのだが、そうしてすべてが「むつかしいですね、うふふっ」で過ぎてしまうのだ。

こういう「無敵マン」の人はけっこうな割合で存在していて、何が無敵かというと、この人はどんなことでも「誰かが教えてくれれば」、すべて超一流で出来るという前提でいるのだ、これは誇張でも何でもなく、いわゆる幼児的万能感というやつだ。
だからこの人は、たとえば目の前に超一流の板前がいて、その彼がとんでもない味覚の繊細さと、人間離れした静寂の包丁さばきを持っていたとしても、「自分も同じだけ習えば同じようになれる」と思って眺めているのだ、だから「すごい!!」と感嘆しない、ただ本人に包丁を握らせると、リンゴの皮むきにさえモタモタするので、「むつかしいですね、うふふっ」という感じになる/そして、誰もわざわざ習うようなことではないはずのリンゴの皮むきでも、「皮むきの仕方を教えてください」と他人任せモードに移項するのだ、そのとき、やはり根底で「ちゃんと教わればわたしはぜったいにできます!」という怒りのような確信がある。
たとえば、車の運転がヘタな人は、もし運転を上手になろうとするならば、何かを根本的に「変える」必要があるはずだが、無敵マンの人は大前提として自分を何か「完璧」と思っているので、自分の何かを「変える」という発想がない、<<ちゃんと教わればできるはずだ>>と思い込んでいるので、自分を変えることはまったくないまま、やり方を教えてくれる人に丸投げする態度になる、それこそが無敵マンの人にとっては「誠実で一所懸命、努力」という感覚なのだ、これはもうマジの話なので責め立てる気にもなれない。
大変まずい話、「むつかしいですね」が口から出てくる人は、「できる」「できない」でいうと、すでに「できる」側の感覚でいるのだ、だからできないことへのアプローチは構造上一切の不可能になる、まあ幼児的万能感の保持のほうが優先なら致し方ないのだが、合理的に考えると「で、できね〜」のほうが利益的だとおすすめしたい。

「で、できね〜」と言っている人のみ、「何が違うのか?」を見つめる眼差しを持っている。

「むつかしいですね、うふふっ」のパターンの人は、あとは努力すればできるので(と本人は思っているので)、「何が違うのか」を見つめて探す眼差しがないのだ、そりゃそんなもの必要ないのだから、そんな眼差しは出てこないに決まっている、だからこのタイプの人の努力は必ず盲目的になる、盲目的になるので、「やっていることが違う」ということに何十年経っても気づかないままなのだ。
たとえば僕の場合、速い球を投げる人や、サッカーボールを蹴って遠くまで飛ばす人が、どうやっているのか「うぬむむぐ、さっぱりわからん!!」のだ、そして自分でやってみると、「んぬくえおおおあ、さっぱりできん!!」のだ、なーにが違うんだろうなと思って、よくyoutubeを見るのだが、どれだけ解説されても、「わからん!」「できん!」のだった、それでいいのだ、「むつかしいですね」とはまったく思わない、自分ができねーのにむつかしいもヘッタクレもないわ。
できるオンナだね | comments(0) |
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