☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
<< 魂魄は水質と水路 | TOP | 80000 vs 0 >>
アクションと余韻/呪と言葉

うせやるからには、クリアに徹底的にやる。
部活動じゃなくて、学門のことなので、「このキモチ、それも一興かァ〜☆」というわけにはいかない、違うことをやったら違うことになってしまう。
古くからある言葉を担保にとり、「魂魄」を分離して考える/魄・気魄は「アクション」の中にあり、魂・霊魂は「余韻」の中にある、これは実演で確かめられる。
僕の方針は、唯一、言語を余韻の側へ帰し、言語を呪でなく「言葉」に戻すことだ、このことの実現のために、「アクションと余韻」の実技に熟達する必要がある。

アクションの側、魄・気魄の側は、ある一点に向けて訓練する必要がある、それは「触れる」かつ「何もしない」だ。
魄・気魄が「何かしてしまう」と、もう余韻の側へ入り込むことはできなくなる/また、魄・気魄が「何かしてしまう」と、相手も「何かしてしまう」ので、これは揃ってアクション界(ノンフィクション界)に囚われてしまう。
では、魄・気魄が相手に「触れる」、かつ、「何もしない」にはどうしたらよいかというと、<<偏りをなくす>>しかない、偏りがゼロになれば自動的に「何もしない」が実現する。
原理はこれだけだが、人によっては、この原理を追求する以前に、この原理を「憎悪」する人もある、この人は能力の問題でなく、呪を信奉し、呪を愛しているので、この人の追求は自動的に逆に向かうようになっている/このことを見分けるのには、a.言葉原理に向かう人の訓練は格調が下がっていくのに対し、b.呪原理に向かう人の訓練は格調が上がっていく、という性質がある、これは「格」そのものが呪で生成されるものだからだ。

現代は、「偏りで言語が止まらない」という状態を、正義とみなしている。

思想的に、右と左が、それぞれの偏りから正義を呪いあうのは常時の光景だし、つい先日も、被災地に千羽鶴を送るなとか否定するなとか、それぞれの偏りから正義が呪われた/僕の志向は、偏っている人たちに興味はないが、ただそこに「言葉」は原理上生成されないということだ、僕は思想の追求ではなく「言葉」の現成を探求しているにすぎない。
よって僕は、ご存じのとおり、僕に味方してくれる人に対して冷淡だし、僕にアンチ(敵対)する人に対しても冷淡だ、それは僕の思想によってではなく、この場合「言葉」の現成を探求する学門からは外道に当たるからだ。

正しく見ないとな | comments(0) |
コメント
コメントする










| /PAGES |