☆いい女☆で行こう!

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マスターから教わるのは別

「知っている人から教わる」「わかっている人から教わる」「出来ている人から教わる」というのと、「マスターから教わる」というのは別だ。
マスターから教わるのは別」と、覚えておいたらいいかもしれない、マスターというのはある意味「宗家」みたいなところがあるが、どういうことかというと、マスターというのは「その先に遡れる先生がいない」ということだ。
もちろんどんな人だって、色んなことを学んでいくのに、師匠にあたるような人が存在したはずだけれど、「マスター」になると別なのだ、「マスター」に到達してしまえば、もう誰に教わったとか誰が師匠とか、そういうことは関係なくなる、もちろん尊崇や敬愛は残るだろうが、そうではなく、つまりもう誰かの弟子ではなくなるのだ。
「マスター」に到達すると、物事の事象がガラッと変わる、「マスター」はつまり、「世界」から直接「どうしたらいいか」を受け取っているのだ、つまり言葉・学門・世界そのものからエコー命令を受けて動いている、だから「マスターから教わるのは別」だ、マスターというのは一般的な人間関係の法外にある。

一般に、物事に熟達していくと、熟達度合いによって「格上」になっていく。
これが、「マスター」ということになると、ガラッと変わるのだ、マスターというのは「格の外」なのだ、格上の格上の格上……を目指してたとして、「マスター」は格そのものから離脱しているのだ、だからいっそ、「○○流の宗家というのは、○○流の師範ではない」と捉えておいたらいい、それぐらい「マスターから教わるのは別」だ。
師範や師範代から「教わり」、修練を積んでいくということと、「マスター・トライアルをする」ということは、まったく別なのだ、師範だけを目指す人はマスターにはなりえない、よって、厳密には師範を目指すことは「道」ではないということになる/師範というのは、弟子や生徒を前提とした格付け上の定義であるのに対し、「マスター」というのは、弟子や生徒がいなくても単体で存在する、マスターはただのマスターなのだ。
人それぞれ、どんな道をゆくにせよ、大前提に「マスター・トライアル」がなければ、人は実は、いかなる努力をしても「道」を進んでいることにはならないのだ/仮に「○○道」の道場があったとして、師範だけを目指した人は、道場に住み続けるしかなくなる、マスター・トライアルがなければ「世界」に生きることはできないのだ、そうなると狭い道場の中や、狭い舞台の中、あるいは狭いカンバスの中に閉じ込められるしかなくなってしまう。

宇宙物理学者の居場所は、宇宙であって大学ではない。

宇宙物理学者は、宇宙と取っ組み合いがしたいのであり、大学で幅を利かせたいのではないのだ/宇宙物理学者は、宇宙と取っ組み合いをするのに、大学が環境と予算を用意してくれるので、大学の教授職にあるにすぎず、もしその環境と予算が得られるなら、別に郵便局員でもいいのだ、宇宙と取っ組み合いをするのに夢中なのだから、人の世の格付けなんかまったく関心を失っている(実際、ペレリマンという数学者は、ポアンカレ予想という大問題を証明したあと、フィールズ賞を受け取らず、ミレニアム賞の一億円も受け取らず、どこかに雲隠れしてしまった、「自分の証明が正しければ賞は必要ない」そうだ)。
マスターだけが「格」の法外なので、マスターだけが「世界」に直接存在でき、だからこそマスターは「教え」の伝播に頼らず、エコーで直接教えることができる、同じ「教える」といっても作用の理法が違うのだ/どんな小さなことでもいいし、どんなガタガタの状態でもいいので、格をはずして「マスター・トライアル」を大前提にするべきだ、そうでなければいかなる努力も一切「道」を進んではいないことになってしまう。

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