☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
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僕の見ているものが他の人に見えているわけではない
とんど例年どおりのことだが、葛飾区の花火大会に行ってきた。
僕はあいかわらずなので、打ち上げのほとんど最近傍までゆき、その後はずっと夜空と打ち上がる光跡を見上げているのだが、僕も少し賢くなった。
少し賢くなって、「そういえば、こんなに必死に花火を見上げているのも、ひとつの特異体質なんだ」ということに気づいた。
目の前には、浴衣を着た四歳ぐらいの女の子が母親に連れられていて、右隣には、慌てて来たらしいカップルがいたのだが、周りの人は誰も、そこまで必死に夜空と光跡を見上げているわけではないのだ、みんな割と遊興のムードで、花火を肴におしゃべりをしているのであって、僕一人だけが異常に「うおおおお〜(内心)」となって夜空と光跡を見上げているのだ、このごろになってようやく「そういうもんだ」ということが理解できるようになった。

今はもう、むつかしいことを言わなくてもわかる、「まあまあ」と人を宥めたいほどだ/つまり、僕の目に映っている花火と、隣の人の目に映っている花火は、同じではないのだ。
そのことには自信がある、なぜなら、もし僕の目に映っているものと同じものが視えているなら、決してよそ見なんかできないし、横を向いておしゃべりなんかしていられないからだ、僕の目にはそれほどのものが映っている、例えて言うならば、僕の目には天空に散るすべての光弾が一個ごとに映り込んでいる、「ピュー」「ドーン」「た〜まや〜」とは映っていない。
ここ数年で、僕が知ってきたことの、ごく簡単な総括がここに為される/つまり、僕の見る花火とか、僕の聞く音楽とか、僕の見る景色、僕の見る女性、僕の嗅ぐ香り、僕の吸う空気、僕の触れる肌、僕の触れる言葉、そういったものはすべて、他の人の受け取るそれとは違うのだ、それは別に僕が優れているということではなく、実は人それぞれ「届いているもの」「届いている質」「届いている量」は異なるということなのだ、もちろんこんなものはクオリア問題だから証明のしようがないが……
ある女性は、僕に対して、「あなたが音楽を聞いているところを、横から聞くと、いくつもの不思議な光景をパッと見るの、あなたはこんな音楽の聞き方をしているのかしらって、たぶんそれでもわたしはまったく聞き取れていないのだろうけれど、それってものすごくうらやましいことだわ」と言った、僕はそういうとき、よく冗談――でもないこと――として、「おれが見ているもの、聞いているものを、もし同じだけ受け取ったら、ふつうの奴は死んじゃうと思うぜ」と嘯(うそぶ)くのだった。

届いている量が違う。

葛飾区の花火は、1万3000発らしいが、それは花火の小玉・星をカウントしてのものではないだろう、僕は空に散る小玉のすべてが見えているから、1万3000発どころじゃない、数百万のきらめきを一度に見たような気がしている、気がしているというか実際そのように見えている、僕は光っているものを見ているのではなく光そのものを見ていよう。
単純に考えて、高性能のコンデンサマイクは、微細な音も正確に拾うのだから、人間だってそういう機能のレベル差はあるだろう、マイクごとき、機械ごときにさえその差があるわけだから、人間における差はもって果てしなく大きいだろう、それは単に感覚が鋭敏とか繊細とかいうことではなく/数百万のきらめきが、場所も空気も風景も季節も吸い上げて、「ひとつの夜」となって届いているということだ、僕も賢くなって、僕の見ているものが他の人に見えているわけではないということが自然にわかるようになった。
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