☆いい女☆で行こう!

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あなたに向けられたものなどこの世界に何一つない

動を取り戻すための手続き/あるいは、初めて手に入れるための手続き。
あなたが一本の映画を観たとする、その映画を、あなたがどう評価するかは、あなたの好きにしたらよい、「十分名作だと思う」とか「キャスティングに難があった」とか、そういうことはよくSNSツイートで発信される。
だが根本的な誤解は、この世界には、あなたに向けて創られた映画などひとつもないということだ、たとえば「ローマの休日」でアンとジョーは恋人のように過ごすが、それはアンとジョーの話であって、あなたの話ではない、映画はその点で「他人事」なのだが、その「他人事」ということがわからない人が現代には多いらしい。
世の中の多くの母親が、自分の娘の恋人や恋愛事情のことを、「他人事」だとわからないのと同じ仕組みで、現代の多くの人は、アンとジョーが過ごしたローマの休日が「他人事」だということが根本的にわかっていない、ローマの休日は他人事であって、自分はSNSの休日を過ごしているのだが、どうもその区別がつかない人がいるのだ、ローマの休日に示されたテーマはあなたに向けて示されたテーマではまったくない

それで、現代の多くの人は、「自分の興奮」と「感動」の区別がついていない、何もかもが「自分の興奮」のために消費され、「感動」ということは一度も得られないまま、自分の興奮が「感動」なのだと誤解され、平気で他人事に踏み込んで土足で消費して興奮するということを繰り返している。
これはむろん、他者性の欠如であって、土居健郎が言うところの「甘え」であるには違いないが、すでにこの現象はケタ違いに進行しており、もはや土居健郎の理論で手当てや修正が利くレベルではなくなっている、土居健郎はここまでモンスター化した人々を前提に甘えの構造を説いてはいない。
「感動」がないのだ、「感動」がないということは、すべてのものに見放されたということなのだが、当人は知りようがないし、当人はずっと他人事に踏み入って興奮しているのだから、もう何も見えなくなっている/「感動」というのは「他人事に感動する」ということなのだが、自分の興奮をむさぼり続ける人は、このことに気づきようがなくて、その結果、いつも他人事を「罵る」か「応援する」かのどちらかの興奮に向けて破裂寸前の状態で待ち受けている。
この世界には、<<摩訶不思議な「他人事」が無尽に光り輝いている>>というのが、カミサマとつながっている――自分がこの世界にいる――ということだから、その感動がないということは、何もかもに見放されているのだ、誰かが氷の上でX回転のジャンプをしても、それはそこにそういった誰かの青春があるということであって、あなたのことではない、あなたがあなたのことではないことに土足で踏み入って消費することを社会参画とは言わない。

「他人事」がわかっていない人は、「自分のこと」もわかっていない。

そりゃそうだ、他人事と自分のことの境目がわかっていないのだから、自分のことだって見失われているのだ、さあ厳密に「自分のこと」といえば何だろう? そのことが視えたとたん、世界はワッと目の前に広がって現成し、尽きようのない「感動」が全方位から湧き立ってくる。
互助、助け合いの精神は必要だ、それはわれわれが生きていくためだ、だが互助が相互の「命」を為し合うことはない/助けることには前向きでいるべきだし、助けられたとき――助けられているとき――は死ぬほど感謝しろよ、ただそれは生き永らえさせてもらったというだけであって、命そのものではない、他人事の命は誰もが自分限りでやっていくしかない、それはとっても痛快なことだしね。

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