☆いい女☆で行こう!

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粗雑と乱暴がもたらしたもの

半紙にはラクガキするが、ケント紙にはあまりラクガキはしない、それはケント紙が媒体として高価で入手にコストが掛かるからだ、それが手漉き和紙になればさらにラクガキはしないだろう。
インターネット上には、本質的にラクガキのような雑言が大量発生しているが、これはひとえに、電子テキストという媒体が実質無料で消費財でないことから発生している/どんな雑言の発信者も、半紙に毛筆で墨を垂らして雑言を筆記発信するわけではないのだ、炎上と雑言の現代は人々の気質以前に実は「媒体」の革命によって形成されている、IT革命より直接的に媒体革命があったことを見なくてはならない。
かつてLPレコードだった媒体は、カセットテープになりCDになりMDになり、mp3になり「配信」になった、漫画やアニメはデジタルペイントになり、写真はフィルムからデジタルになった。
媒体革命は、われわれの生活空間を、ラクガキ空間に変質させていったことになる/そしてラクガキの本質は、表現そのものが「粗雑で乱暴」ということだ、われわれの生活空間はそのようにして、「粗雑で乱暴」ということに性質づけられていった。

そのように、生活空間が革命されていったとしても、われわれの心身が革命されるわけではない、われわれの心身はけっきょく「粗雑で乱暴」を「わが命」とすることはできない。
たとえば単純な話、youtubeでチャックベリーとジョンレノンの合奏などを視聴することができるが、彼らの気配は現代のわれわれと比較すると、おそろしく静かで繊細で丁寧だ/何かを感じ取るということは、決して腕力や音声を振り回すことではないのだということがわかる。
チャックベリーはロックンロールの創始者のようなものだが、それなのに現代のわれわれに比べると、やはりおそろしく静かで繊細で丁寧だ、それでいて当然、心身の活力やその声のエネルギーはわれわれをはるかに凌いでいる/たとえばわれわれは、「目力(メヂカラ)」というような言い方を平易にし、その言い方がどのようなものを指しているのかをよく知っているが、四十年前のアーティストたちの誰一人も、その「目力」というようなものは持っていない、「目力」という発想とその実物が、いかにも現代的で粗雑で乱暴なものなのだとわかる。
媒体革命という外的要因から始まった、現代の「粗雑と乱暴」さを、過ちとみなして消去しようとするとき、われわれはおそろしく静かで繊細で丁寧に生きることに振り替えねばならないが、そのように己の振る舞いを変えようとしたとき、いかに己の心身と声が芯からの活力とエネルギーを失い切っているかに気づくだろう/われわれは今や、己の虚弱と空虚を覆い隠すためにこそ、腕力と怒鳴るような音声を振り回しているのでもある。

「粗雑と乱暴」が、われわれの活力と声を失わせ、失われたそれを補うのにも、「粗雑と乱暴」が用いられた。

藁半紙という粗悪な媒体が土台となって、ラクガキを生じせしめるのだとしたら、われわれは媒体革命された生活空間の中で、まるきり「ラクガキのように生きている」ということになる、そして粗雑で乱暴なラクガキがわれわれを真に賦活するということはありえないので、われわれはラクガキを食(は)み、荒み衰えていった/現代の大学の合唱団と四十年前の大学の合唱団の、それぞれの演奏を比較すると、現代のわれわれの芯がどれほど荒み衰えているのかがよくわかる、このことの責はむろん個人や現代の若年層に帰されるものではない。
われわれが立ち直ることを選ぶのだとしたら、われわれは今から、おそろしく静かに、繊細に、丁寧に、すべてのことをし、しかもそのことを<<やめずに続けなくてはならない>>、荒み衰えた己の心身でそれを「やめずに続ける」というのは、ただならぬ負担をもたらすだろう、だがその堪えがたい負担こそまっとうな負担であって、腕力や怒鳴り声や目力でごまかす不誠実の生存はもはや息絶えたのだ/今や荒み衰えた己の心身の芯を「弱い」と認める者から順に誠実さの光を取り戻してゆくだろう。

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