☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
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主体

べてのことは健全にやっていくしかない。
僕は何一つ、習ってはこなかったし、何一つ、努力はしてこなかったし、何一つ、興味を持ったというようなこともなかった。
その割には、妙な能力を大量に詰め込んであるオモシロ人間になってしまっているが、つまり愛だけでこれだけのことを身につけてきたということ、そっち方面が好きな人はバクティと呼んでもいい、僕は「世界愛」と勝手に呼んできたが。
自慢しているのじゃない、或るメカニズムについて学門上の仮説を示しているだけだ、「くつろいでほしかったから、くつろがせる術が身についた」「笑ってほしかったから、笑わせる術が身についた」という、単純な愛原理、バクティ原理の可能性について唱えている。

「身につく」という言い方じたい、何か気に入らないところがある、僕はこれを独自に、「愛につく」と呼ぶことにしよう。
僕は、「何一つ身につけてこなかった」のだ、何もかも「愛につけてきた」のであって、愛をなくせば僕のすべてのものは消失する、これは例え話ではなく本当にすべてが消失する確信がある。
僕は今でも、指揮者の能力を残しているが、それを身につけてきたわけではない、いっそそんなことは「身に覚えがない」と断言して構わない、だって本当に「身に覚えがない」もの/ただ、音楽の愛に触れると、例によってまた勝手に動き出す、というものがある、これが事実だ、少なくとも僕は本当にそういう仕組みで動くものになっている。
このごろは、「身につける」ということも、少しはするようになったけれど、それはただの健康増進のためだな、身につけるものに興味はない、僕は何も身に覚えがない、すべてのことについてズブのシロウトだ、自我にも身にも何も入っていない。

僕には何の能力もなく、愛には無制限の能力がある。

僕が愛の能力を持っているのではなく、愛そのものが能力を持っているということ、主体を持っているのはどうやら生きものだけじゃないらしい、愛という非物理的なものも主体を持っているようだ。
これはアヤシイ話をしているわけではなく、この話がわからんのは単に頭が悪いのだ、僕が愛という能力を保有しているというのは幻想というか誤認だ/僕(ぼく)は僕(しもべ)であって、しもべだということは主体はヨソにあるということだ、「僕が主体」というほうが国語的に間違っているだろ、従僕は主体じゃなく従体だろ。

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