☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
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主体2
か知らんが、ある種のパターン化された「シーン」で、僕は迫害・攻撃・否定を受ける、それはもう風物詩みたいになってしまったので、まあいいかという心地だ。
そのことは、どうせずっと続くのだろうし、けっきょくやめてはもらえないのだろうから、もう投石前提で生きていくしかない、この投石がゲリラ豪雨みたいにいつも突然来るのが厄介なのだが、ゲリラというのはそういうものなのだから、これもしょうがないだろう。
どうでもいいようなことだが、たとえ僕を殺したところで、或る種の「うっとうしさ」は残るよ、つまり僕を消去したところで、やはり投石する対象は消えない、だから僕を殺すことはオススメしない/井戸を埋めたところで地下水そのものがなくなるわけではないので、地下水は必ずどこぞから湧いて出てしまう。
投石という言い方をしているが、正確には、投石というより「血祭りに上げる」ということだ、そうして僕に血祭りに上げて処刑しても、どうせ根源的な「うっとうしさ」は消えない、どうせやるならうっとうしさそのものを消すべきだろう、どうやったら消えるのかは僕は知らないので、そっち方面はそっち方面の人が全力で考えることだ、僕がうっとうしい奴なのは生まれつきのことなのでしゃあない。

僕が「身につくではなく、愛につく」という言い方をすれば、ただちに「死ね」という反発の声が上がる、無条件の反射のように/この声が降り積もるとやがて発火点に達して血祭りが起こる。
僕(ぼく)は僕(しもべ)なのだから、僕を殺したってしょうがない、殺すなら主(あるじ)を殺せ、その主体を殺せばうっとうしさは消え去るだろう。
ああそうか、あなたはしもべになることがイヤなのかもしれないな、主(あるじ)があったら僕(しもべ)になってしまうものな、だから「うっとうしい」と感じるわけだ、それで僕を殺そうとするのは、一種の父親殺しの儀式なのかもしれない。
ここで、ひとつの分岐点があるのかもしれない、つまり、1.血縁者としての父親殺し(むろん象徴的に行われる)を経て、真の主たる父に従する僕たるを己に得る、という派閥と、2.真の主たる父を殺害し、一家の主たる父(血縁者)に従する僕たるを己に得る、という派閥があるのだろう、「父親殺し」は二通り存在するのだ、「家」の父を殺すか、「世界」の父を殺すか、それがいわゆる「出家」「在家」の本質的差異だ。

「世界愛」の対極に「ホーム愛」がある。

世界愛の側は、特に何もしないが、ホーム愛の側は、汝の隣人を愛さないので(隣人はホーム愛の対象ではない)、ホーム愛は世界愛を殺害するのだ、別に殺したくて殺すのではなく、自分の愛するホームを守るために殺すのだ/しばしば、どちらのホームが生き残るかという局面で戦争が起こる。
主体、つまり主(あるじ)のことだが、これも「世界主」につく愛の者と、「ホーム主」につく愛の者があるのだ/キリスト教が肯定的にいう愛は世界愛のほうであって、仏教が否定的にいう愛はホーム愛のほうだ、この二つの愛はまったく性質が異なる。
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