☆いい女☆で行こう!

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さっさと整合させるための愛の仮説

、時間がない上に、とっても眠いので、もう強引に次のステップにゆくための仮説をブン投げて示す、反論のある人は冷凍肉を900キログラム食べてから反論すること。
つまり、「愛」というものを、一般に「ない」もの、一般に「わからない」ものと仮定すれば、それでさっさと整合する/なぜか愛については、万人がバチーンと所有しているぜ絶対〜という前提になっているが、そんな前提が正しい保証はどこにもないのだった。
通常、われわれは、万人が「愛だけはわかる」「愛だけは持っている」というナゾの前提でわれわれ自身を捉えているのだが、この前提を放棄してしまえばいいのだ/<<縄文人に二次関数のことを訊いてまわるようなもの>>と思えばいい、「???」という反応しか返ってこないだろうし、そのことで誰も縄文人を責めようとは思わない。
「愛」というのが、生得的なものではなく、教わるもの・与えられるもの・開眼によって得られるものだと、定義を書き換えればいいのだ、それですべての話は整合する/現代人が愛をドブに捨ててしまうのは、縄文人が対数表をたき火に放り込んでしまうのと同じだ、それが大切なものだと教わっていなければ、ドブに捨ててしまうのも責められたものではない。

教わり、与えられ、何かしらの行いを積み、ある種の徳性が啓いていないと、愛は本当に「わからない」のだ、愛は作用するだけで、受け取られないので、そのままゴミ箱に投棄されてしまう、だいたい大切なものというのはそうしてゴミ箱に捨てられてしまうものだ。
古くから、「豚に真珠」とか「猫に小判」とか、うまい言い方が日本語にはある、そこで「現代人に信愛」というようなもので、その価値や大切さというのは本当にわからないのだ/当人に責任があるのではなく、いや、あるのかもしれないが、何にせよ本当に「わからない」のだということ、なぜわからないかというと、教わってきていないからだ、愛の価値や大切さは、「生まれつきわかる」ものではない。
図書館に行くと、いくらでも、「何が書いてあるのかさっぱりわからないむつかしい本」があるが、多くの人がそこに書かれてあることを一切理解することなく死んでいくのと同等に、「愛」というのも、多くの人は一切理解することなく死んでいくのだ/多くの人にとって、愛は「ちんぷんかんぷん」だと認めてしまえば話は早い。
愛を理解しない人は、すべてのことを、自分が「快」か「不快」かだけで判断するしかなく、愛は快適なものだから、それをなるべく多く消費して「快適だった!!」と言いたがろうとする生き方を選ぶことになる、本人はそれを悪いこととはまったく発想できないのだ/もちろん、そのようなことでは、やがて当人がすさまじい悪夢を見るようにはなってしまうが、その悪夢だって「不快」としか判断できないので、なおも「誰かこの悪夢をさっさと治してくださいよ」としか当人は発想できないのだ、感謝といえば頭を下げることだと思っているが、その感謝には感動はまったくなく、ただの自分の快適さに対するお礼しかない、仕組み的にそれはどうしようもない。

愛の映画に感動しましたか、ではそれはどういう愛でしたか。

「愛の映画に感動した」と、大ウソをついてはいけない、役者の顔面やBGMの雰囲気でキモチがフワッとなっただけということもあるだろう、残念だがそこを婉曲してあなたをケアする時間はもうないのだ、「人の感じ方は人それぞれ」という言い方があるが、この言い方はさしあたり油圧プレスにかけて粉砕するほうがいい、あなたのキモチなんかより愛を知ることのほうが一億倍あなたにとって大切なことであるのは、火を見るより明らかだ。
さしあたり、あなたが知らなくてはならないことは、単純な戒め、「愛をゴミ箱に捨ててはいけない」ということだ、第一条をそれにしたらいい、「愛をゴミ箱に捨ててはいけない」/「そんなことわかっています」、とあなたは言うかもしれないが、では本当に、これまで一度もそれをゴミ箱に捨ててしまったことはないか、本当に「愛だけは見逃さず分別してきた」と断言して、あなたはよからぬことにならないか、自首しない場合は情状酌量は利かない

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