☆いい女☆で行こう!

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愛がすべて・愛につける(ワークショップ)3
よ行く準備しろやと我ながら思うが、ギリギリまで考えてしまう。
僕の場合は、「愛がすべて」「愛につけろ」というのが、いいと思う、最高にいい、あくまで僕の場合は、「○○のワーク」ということでは面白くない、なぜなら僕は「そういう奴」ではないからだ。
おれはきっと、不当な奴なんだろうな、だが不当な奴には不当な奴の、やるべきことがある、おれは身についていないことを実現するのが好きなのだ、何もバッチリじゃない、ふらっふらの状態で、信じているものが降り注いでいるときが好きだ、自分なんかアテにならないので、そのとき降り注いでいるものをおれは信じている。
すべてが「イエス」に収束するか? させてみせる、おれには何の技術も修身もないが、おれにやらせるならそのときかぎり、すべてを「イエス」に収束させてみせる、その方法は簡単で、全員が「イエス」になればいい、むろんそんな能力はおれの中にはないし、むしろ誰の中にもない、だからおれは自分に期待しないし、他人にも期待しない、すべての人を「イエス」が貫くことだけを信じている。

「イエス」と「ノー」が、実は対立の概念などではなく、まったく出どころが違う別モノだということ、これを追究するのが当ワークショップだ。
「ノー」というのは、「抵抗」だ、動かないということであり、無言にも「言う」ということだ、これは誰にでもできるし、誰もが「やってしまう」ことだ、こちらはそんなにむつかしくない/洗練することも含めて、それなりにわかりやすい感触のものだ。
だが「イエス」のほうは、われわれの身の内にない現象だ、こちらは本当にむつかしく、場合によっては一生に一度も触れることがない/そして「イエス」ということは、「聞く」ということなのだ、何を聞くといって、命令を聞く、命の令を聞く、驚いたことに、「イエス」の中では命令者でさえ「聞いている」側なのだ、このことを掴めるかどうか。
おれが、「身についていないことを実現する」というのは、そういうことだ、おれの身に命令が入るので、身についていないことが実現されるのだ、何もかもがイエスになった夜に勝るものはない、「あのときはすべてイエスだったな」という、ただそれだけのことに糸口がついてほしい、われわれが掴まねばならないのはワークではなく「イエス」そのものだ。

身につけたものは、いちいち取り出さねばならないが、愛につけたものは、取り出さなくてよい、初めから出たままだ。

これが、能力とか技術とかワークとかではなく、「イグジスタンス」なのだと思う、思うというかそれがイグジスタンスだ/「愛」は自分の中にないものだが、そもそも自分の中にあるものって何だ? 自分の中にあるものは、いちいち取り出さねばならないし、取り出すのだって難儀するじゃないか。
「自分の中にあるもの」を使うという発想が、そもそも不利な思い込みなのだ、内なる存在を外に取り出すという手間がそもそもの幻想であり、外に取り出したときにはすでに損耗して鮮度を失っていよう、「わたし」というものが自分の内にあると思い込んでいるのがそもそもの不毛だ、自分の内にある吾我は主張が強いだけで「わたし」ではない/「わたしの中にわたしはない」「なぜならわたしの中はノーだからだ」、すべてを貫く「イエス」だけが本来の「わたし」たりえる、そこにすべてを括り付ける、だから「身につける」ではなく「愛につける」、そのことに気づくには自分がどうにかしてそれを「聞く」しかない。
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