☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
<< WS報告007(2) | TOP | WS報告007(4)/「死ね」のこと >>
WS報告007(3)/「長かった」

夜連続、朝までのワークショップだったが、なぜか異様に時間を長く感じた、二日目は特に全員が「長かった」と感じたらしかった。
沈滞して長く感じたのではない、何かまったく別の現象として長く感じた、日曜日の朝になると、金曜日の夜のことなど、「何かもう、ずっと昔のことの気がする」という状態だった、なぜか合宿明けのような奇妙なムードになった。
これは、仮説だが、おそらく、われわれは時間そのものを「長い」と感じるのではないのだ、なぜなら寝ている間の時間を「長かった」とは感じないからだ、寝ている間の時間を「よく寝た〜」と言うことはあっても、「長かった〜」と言うことはない、「○時間ぐらい寝た」という身体の感覚はあるのに、その○時間を「長い」とは感じないのだ、睡眠が「足りない」と感じられることはあっても「短い」と感じられることはない。
この、異様に長く感じた二夜連続のワークショップは、つまり体験が多かったのだ、より正確に言うと、「時間」という概念空間ではない感覚空間に触れているところが多くあったので、異様に長く感じたのだ、仮に言うなら、知らぬ景色の中にある映画館を五つまわって過ごすのならその一日は異様に長く感じられるだろうというようなことだ、映画の中の「二年後」は、ノンフィクションの二年とは異なり、物語の二年なのであって、実時間の二年ではない。

古くから言われる魂魄という捉え方で、横隔膜はメインとして魂(霊魂)の側を担当しており、この横隔膜には実は「聞く」という能力がある、つまり霊魂サイドのものが「聞こえる」ので、フィクション側・物語側の世界が見えてくる・聞こえてくるということになる、そしてこれはフィクション側なので物語時間しか存在しておらず、実時間の体験とは切り離されている(物語時間は存在であって「時が流れる」という事象ではない)。
まあ何はともあれ、対面歩法(露骨法)によって、相手を「聞く」ということの初歩的現成に至れたのだ、これにより命令法の初歩もおおむね出来るようになった、これはもうバンザーイと言うしかない、これは通常超えられない壁の典型例だったから、これが超えられたというのは実にワークがアタリで、そしてそれ以上に何かとうまく噛み合った結果なのだ、一種の奇蹟みたいなものじゃないかと僕は思っている。
そして、対面歩法(露骨法)が初歩的であれできるようになると、元々の「聞く」、特に「自分の腕を聞く(手命法)」が、基礎としてどれだけ重要なのかも理解されるようになった/自分の中心に行けばいくほど、そこには自分の「吾我」があって、自分の中心から離れれば離れるほど――つまり「世界」のほうへ行けばいくほど――そこにはわたしの「命」たりうるものがあるのだ、その「命」をどこまで「聞ける」か?
吾我が悪いということではない、吾我はわたしが「言う」もの、命はわたしが「聞く」ものだ/極小点に完全化した吾我が、世界の果てまでの「命」を聞き、合一できるかどうかだ、自分が生きているあいだに一番遠い「命」につながることができれば、生の終わりにも命はなくならない、これは信仰の問題ではなく論理の問題だ。

「命」を聞け、「生」と「命」は別の現象だ。

「命を受けている者」のことを、「命がある」というのだ、生きているから命があるのではなくて、「生きろ」という命令を受けているから「命がある」のだ、ただし命令というのは「生きろ」というそれだけではない、他にもいろいろある、自分の中心点から離れれば離れるほど、命(命令)はデカくなる、そりゃ球体の半径が大きくなればなるほど世界の体積はデカくなるのが当たり前だ。
ワークの原理は、どれもすべてカンタンだ、「聞こえてねえだろ???」というだけだ、おれからの命(エコー)が聞こえてねえだろ、ということであって、そのことは、「自分の右手からの命も聞こえてないよ、やってみなさい、こうして……」とやると、「ホンマや!!」と誰でもわかるのだ/自分の右手のエコーも聞こえていない奴が、この世界の何を聞き取れているわけがあるよ、そのことに「ふざけんな」という直面の実技をブッ込んで悟らせるのが当ワークショップの本旨だ、とてもわかりやすいので、わかりやすさには定評があるのだった。

そのほか | comments(0) |
コメント
コメントする










| /PAGES |