☆いい女☆で行こう!

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WS報告008(2)/本命法

の中に命がある(本、台本など)。
日本中のあちこちにおフダが貼ってあったりするが、「文字の書かれたもの」そのものに、何かがあるのかもしれない。
であれば、電子書籍という発想は危険を含むな、これまで「紙媒体」と呼ばれていたものがあるが、実は紙はメディアではなくマテリアルである可能性がある。
本の中に命があり、その命令に従っているとき、他人のことは他人事になり、なんと自分のことも他人事になる。

そもそも、自分の肉体という座標の中に、「わたし」があるという定義がアヤシイのだ、自分の体内に「わたし」があるという根拠はどこにもない、我があるのはわかるが主たる「わたし」が体内に(固定的に)ある保証はない。
実際僕は、「本番」に魂が引っ張られていくのだ、「本番とは何か」ということを説明しようとすると、「練習というのは本番に向けての練習だろ、じゃあ本番は何のためかというと、本番というのはこうだ、つまり……」とやっていくと、そのまま「本番」になってしまい、「ああ〜連れていかれる〜」となる、本番を「説明」するのは至難というかきっと不可能で、本番に接触してしまうと本番になってしまうのだ。
僕は本番が得意な人間であって、それだけにワークショップの先生というのは、本性としては向いていない、ワークというのはエッセンス化した練習のことだからだ、もちろん何のワーク蓄積もなしに本番がまともに成功はしないので、ワークショップという考え方には正当きわまりない意義があるけれども……
といって、別におれはワークショップの先生としても無能ではないだろ? ただ本性としては、僕は本番の人間だ、「本番」はどのようにして始まるかというと、「本の命(命令)」にしたがって、自他もヘッタクレもない他人事にする、「わたしは『本』だ」という状態になる、そもそもこの肉体的なやつはおれの「本」ではねーよ/ここで言っている「本」に命令を受けること、これを「本命」という、このこともワーク化することは不可能ではない、すでに方法は試作されている。

本番中は、「本」があり、「誰」もない。

そこが「練習」との大きな差異だ、練習というのは「誰」と「誰」が何をする「関係」かという人間関係によって形成されていくが、本番はその「関係」から離脱するのだ、よって、<<「本番」は必ず「関係者以外」がいる>>、練習の場には関係者しかいない、関係者以外立入禁止が「練習」だ。
――本命者は「本」にのみ帰依するので、人間関係を断つ、よって本命者は必ず孤立である、本命者はそもそも人間関係という感覚を視認しなくなる/この本命者の孤立に報いるのが人々の「愛」である、この「愛」によって人々は、本命者を介し己を本命に触れさせることができる、この人々にとって己の愛がただちに己が命である/一般に人は、人間関係の中で愛を育むことを期待し目論むのだが、本命者のみはさにあらず、本命者だけは人間関係なしに愛だけを受けることができる、彼には愛のみしか触れられないのであるから……/「本」なる命に帰依した者がそこにあるとき、健やかなる人々は愛を捧げずにいない、こうして本命者のみ「愛を受けるのに人間関係を必要としない」存在となる/本命者はヒューマニズムを超克し「本」の命に帰依する、この本命者に人々は愛を報いるのであるから、われわれが救われるべく求むるのは愛ではなく(本の)命である。

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