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WS報告008(3)/ヒューマニズムの肯定と否定

ワークショップの、モットーがひとつ決定した、「ヒューマニズムの否定」だ、もちろんヒューマニズムを全否定できるほどわれわれはタフではありえないが、ヒューマニズムを残存させているうちは、われわれは命だの愛だの、エコーだの世界だのに会うことはできない。
われわれは、人間であり、ヒューマンなのだが、このわれわれがヒューマンであるということを、われわれ自身が過大評価しすぎなのだ、そのせいでヒューマニズムが、本来の領分を超えて主張を持ち出してしまい、愛や命の尊厳を侮辱してしまう/われわれはいっそ、「人間であってはならない」という考え方さえ持つべきだ。
われわれはどこか、自分(たち)が「まとも」な人間であり、もしカミサマというのがあれば、それは「偉大」な存在だと思っているが、このことにすでに増長があるのだ、ひょっとすると神々が「まとも」なのであって、われわれ人々は「極大のアホ」かもしれないではないか/われわれを「まとも」と前提し、神々を「偉大」と予想するわれわれの常識には気づかれない不遜が潜んでいる。
ヒューマニズムというのはどうしても、行き着くところ共産主義を再興せざるをえないし、そもそもヒューマニズムといえば、すでに十分に世の中に行き渡って満ちあふれている、このヒューマニズムを肯定するかぎりは、命だの愛だの光だのには接触できないのだ、このことは善意にあふれた人がしばしば愛の不能者であるという事実によく整合する。

とはいえ、われわれは誰もか弱き人間どもであるから、ヒューマニズムを全否定して掛かるのは、増長であり非現実的だ、即身仏になりうる者以外はヒューマニズムの世話になりながらでしか生きていくことはできない。
人々は、間違いなく助け合って生きていくべきだ、とはいえ、助け合って「生きた」として、そのうち加齢で中年になり、そのまま加齢で死去するのだが、そうして「生きた」というだけでわれわれが無尽の光悦に浴したりはできない、ただ「生きた」だけだとそのままただ「死んだ」という結果に直行することにしかならない。
「生きろ」というのも命(めい)のひとつだが、やはり本懐としては、生きるのが命なのではなく、命のために生きるのが本懐なのだ/われわれは楽屋と本番を区分するべきで、やはり本番を本命の場とし、楽屋を(本番のための)バックアップの場とせざるをえない。
われわれは助け合って生きるべき(ヒューマニズム)だが、それは常に向き合う、孤たる本番(本命)に立ち出でるためのバックアップ装置であって、<<本命にヒューマニズムを持ち込むことは許されない>>、<<本命にヒューマニズムを持ち込むことは、本たる命を殺すことになるからだ>>。

助け合って生き、見捨てあって命を為す。

「見捨てる」というと、寂寥感に慌てた悲痛を覚える人もあるようだが、その種の人々は命のことを甘く見ている、命(特に、本たる命)を為すとき、「見捨てる」というのは我が身も含めて他人事に見捨てるのだ、彼我の差分はない/「見捨てる」というのは、「勝手に生きたりくたばったりしろ」と見放すことだが、それは我が身も同一に含めてそのように見放すのであり、その見放される中に彼我の差分はない。
ヒューマンたるわれわれは、自分たちがヒューマンであることを過大評価しており、自分たちのヒューマニズムこそが愛さえも内包しうるのだと思い上がっているし、また神々に向けてそのように主張さえしているのだ、どおりでわれわれは「聞く」という能力を失っている/われわれはヒューマニズムを尊び、助け合って生きるべきだが、そうしてわれわれが生きるという自体、<<たいしたことではない>>のだ、われわれの増長と傲岸は、そうした己たちの生こそが「重要」だと勝手に聖典に書き加えたことから始まっている。

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