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WS報告008(4)/聖域とヒューマニズム
れわれは互いに助け合って生きるべきで、互いにヒューマニズムを尊ぶべきだ。
けれどもヒューマニズムは、「聖なるもの」ではない、ヒューマニズムを聖域に混入させてはならない。
ヒューマニストはしばしば、ヒューマニズムを価値観の最上位に置くが、それは知らず識らず「ヒューマン」をこの世界の最上位に据え付けていることになり、それは博物学的にも偏った考え方となる/ヒューマニズムをもって「聖なるもの」と拮抗せしむるがごときは、感情以上の根拠を持たない。
ヒューマニストは、ヒューマニズムにあふれてはいるが、多くの場合で、愛にあふれているとは言いがたい、ヒューマニストはしばしば恣意的に「困っている人々」をサーチし、困っている人々に援助を差し伸べるが、困ってはいない健やかな人々に愛を注ぐ力は持たない/結果的にヒューマニストの人々は、困窮なく愛し合うことへ登頂した健やかなる人々には背を向けて、不遇から苦しみ困り果てている人のみに鷹の目を向けるスタイルに行き着くことがある、そのようなときわれわれはヒューマニストの群像に「聖なるもの」が失せていることを嗅ぎ取り、不穏を覚える。

「聖」という字には、「耳」「口」が含まれている、辞書によるとこの字は、「聞きとる能力と、それをまっすぐに述べること」という字義らしい。
「聞きとる」こと、それを「まっすぐに述べること」……それに比較すると、ヒューマニズムというのは、己の心中に「思うこと」を基とし、己の内から湧いてくること、「聞く」よりはむしろ「言う」こと、さらには「言わずにおれないこと」に類している、ここにおいてヒューマニズムは、貴重なれども「聖なるもの」ではないことが改めて確かめられる。
まともな生者と死者のうち、ヒューマニズムに感謝を覚えない者はおらず、またそれを讃しない者もいない、されども、なおもヒューマニズムに愛を認めるか否かについて、賢明なる者は距離をとって慎重だ、<<ヒューマンごときが愛を自家生産できるのか?>> <<あの聖なる「愛」を?>> 仮に、神の言葉を預かったとされる預言者の存在が真実だったと認めた場合においても、もしヒューマンが「愛」を自家生産できるのであれば、愛については神と呼ばれる者に頼ることなく、われわれの「思う」をもって定義すればよいことになる、「われわれこそが愛の生産者であり創始者であるから」と、われわれは己に愛の「宗家」たるを自負することができる。
われわれは「生物」の仕組みを、かなりのていど解き明かしてきたように思える、DNAの解析情報はすでに基礎的なデータベースとして入手された、けれどもわれわれは、なぜそのタンパク質群が「生きろ」という命令を帯びるかについては解明できない、われわれは生物の仕組みを知ることはできるが、そこに宿る「命」の仕組みを知ることはできない/われわれはわれわれの手によって、タンパク質に命令を与えることはできない、われわれは「命」がどこから与えられているかを知らず……同様に「愛」がどこから与えられているのかも知ることはできない。

「あなたは感動した、それは何よりのことだ、そこであなたに問いたい、あなたはどういう仕組みで『感動』したのだ?」

われわれは、もっとも佳いときに、感動したり、よろこびを覚えたりする、われわれはそのことをよく知っていながら、どのように己に「感動」が生じているのか、またどのように「よろこび」が生じているのかを知らない、「よーしパチンコに行ってストレス発散しよう」「宝くじが三億円当たったらうれしいな」という発想と行動はできるが、われわれにとって「よーし感動しよう」という発想と行為は不可能だ、よほどのマガイモノでもやらないかぎりは。
われわれの身に起こる、あるいは霊魂に起こっているのかもしれぬ、もっとも佳き何かは、感動や愛のたぐいとよく知られていながら、<<それがどのように生じているかをわれわれは知ることができない>>、よってそれを人智外のこととして、われわれは「聖なるもの」と呼んだ/ヒューマニズムはよくわかる、よくわかる善いことだ、それはよくわかるからこそ、人智の内にあるものであり、だからこそ「聖なるもの」ではない。
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