☆いい女☆で行こう!

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命の標準を目指して
ぜこんなことを、ウダウダ言っているかというと、改めて僕自身が、より大きな命に呼び込まれている感触があるからだ、まるで大学生のサークル勧誘みたいだが、大学生のサークル勧誘だって命あるものは命があるだろう、僕はそうしたものにしか反応してこなかった。
すでに明らかに解き明かしたのであるから、明らかにせよ、「生きる」ということと、「命」(を吹き込む)ということは、まったくの別で、むしろ逆方向だ、ほとんどの人は「己が命がない、命を吹き込んでいない」ということに立ち尽くすだけで正しい学門の入口に立脚できるはずだ。
<<命あるものに触れるということは、重大なことなのだ>>、これまで命がなくただ吸収して生きてきた者は、命あるものに触れたとき、<<己が命のなさに直面するあまり、そのことを「殺される」がごときに錯覚する>>だろう、それはあくまで錯覚にすぎない/命を奪われて殺されるのではなく、もともと命がなかったことを今になって認識させられるということ、だから表面上は「殺される」という感じがするのだ、それはもともと命的に死んでいたのであって、今になって殺されるということではない。
どこにでもあるような歌詞に、「あなたがそこにいてくれるだけで」というようなものがあるが、それはそこに「命」があってくれるということだ、わたしはこのことを「命の標準」と呼びたい/「そこにいるだけ」では、「生」としては何もしていないことになるが、「命」は大いに吹き込まれている、標準というのはランドマークのようなものなのだから、実用的には大きければ大きいほどよい、己が大いなる命の標準に至ることを目指すのは、万人にとってまったく健全なことだ。

われわれは、進化したテクノロジーによって、「生物」の仕組みをかなり詳細に知るようになったが、けっきょくのところ、その生物がなぜ「命」を持っているのかについては、解明できない/すべての生物は「生きよ」という命を帯びているが、その命がどこからやってきているのかはまったくわからない、アミノ酸をどう組み合わせてもそこに「命令」が発生することはありえないはずだ、よって「命」はけっきょくアミノ酸由来ではない。
「命」の仕組みについては、けっきょくナゾのままなのだが、われわれにそれを感得する能力がないわけではない、であればこの能力を磨き、この能力に準ずることを、合理的に重視すべきだ/ある空間に、一人の人間が立ったとする、<<生物としては誰がそこに立っても同じはずであるが>>、実際にはそうではない、大きな命の標準たる者がそこに立つと、空間がまるごと「命」ある空間に変わってしまう、そんなことは誰でも体験すればわかってしまうことだ。
女性であれば、誰でも知っているとおり、あるいは、誰でもそのことを一度は知るべきだが、同じ道を歩くのにも、「この人と歩くとまったくそれは違うものになり、違う景色になる」「この人と歩くとき、わたしにはこの人と歩いているという命が与えられる」という現象があるはずだ/このとき、<<命あるものに触れるということは、重大なことなのだ>>ということを思い出して、我がふわついて膨張することを断じて禁じねばならない、そのことはけっきょく、「わたしごときには、自身で命は持てない」という合理的な理解がなければ支えきれない。
すでに明らかに解き明かしたのであるから、明らかにせよ、<<小我に満ちた自分ごときに、命など持てるわけがない>>ので、もし命に触れることがあったとすれば、それは大なり小なり、命の標準たる誰かに命を吹き込まれたものなのだ、このことをないがしろにして吾我を増長させてゆくと、さらに命は遠のいてゆき、命がなく膨張した生だけを背負ってゆくことになる。

仮に「導かれたい」と望む人があったとしても、「もう導かれとるわい」としか言えない。

大きな誤解があって、「命」そのものを「導き」と呼ぶのであれば、「導き」はもともと先に存在していて、後になってパカーンと追加されるものではない、もともと先にあるそれを、当人の吾我がキックしているのが問題というだけだ、新たに導きを求める必要などどこにもないし、新たに追加されても同じように新たにキックするだけだ、あなたは/なぜ命の導きをキックするのか? それは当然、「命の標準」に、「生の標準」がバトルするからだ、「生の標準」が殺されそうだと誤解するので、「生の標準」が「命の標準」を殺しにかかる、自分で毎回「導き」を殺しているだけなのだ。
僕は今、より大きな命に呼び込まれている感触がある、それはさまざまなジャンルの命を統合する大きな命だ、景色も季節も音楽も恋あいも文学も学校も祭りも酒も空もおなじ一つの命にすぎないというような、だから「何」をする必要もないというような/どれほど小さきことも大いなるつながりにおいて大いなることなのだ、そうして大きな命の標準に呼び込まれていくと、また僕の殺される度が上がるのだが、正直もうそんなしょうもないことに相手をしていられないのだ、それが「しょうもないこと」と言われてどれだけグサリと来るものか知っていても、僕がこの命を蹴ってしまうとますます大きな船は沈没していってしまう。
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