☆いい女☆で行こう!

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大きな命と針小棒大2

なりに、世間一般のことを配慮しながら書き話しているので、いつかきっと、本当に好き放題に、本当のことを書き話してみたいものだ。
命あることを書き話さねばならない……なんというか、最大の誤解は、思議には思議の世界があるということだ、思議マンには思議マンの見る世界があるのであって、それは命ある世界とはまったく異なる/なんと言えばいいのか……五感を使うのではないということだ、虚数単位を使えば五i感ということになるが、五感はそれぞれバラバラであるのに対し、五i感はひとつであってバラバラではありえない、そりゃ虚数単位のものを実数単位と同様に扱うことはできないだろう。
くれぐれも、思議の世界がないわけではなくて、思議のゲイン(および五感のゲイン)を上昇させると、そちらの世界が見え、命の世界は見えなくなっていくというだけだ、思議の世界から命の世界の話を聴くと「ななな、なんのこっちゃ、きっしょ」にしかならない、それが正常の反応だ。
ここで太鼓がドンドンと鳴ったとして、それは夏の匂いと関係があるだろうか? 聴覚や媒質振動と考える人は、「嗅覚には関係ありません」と考えるだろう、それが思議の世界であって、何の問題もない、だが命の世界は違う、命の世界では季節がドンドンと鳴っているのであり、それが当たり前だからいちいち注目も感動もしない/そもそもバラバラでなければ「注目」ということ自体できないだろう。

もっとすさまじいものですよ、言ってしまうと。
めちゃめちゃ広いし、めちゃめちゃ広がる、と思っていただいてよい、なんというか、ペン先で青インクをちょんとつけたとして、実はその紙面の裏側はとてつもなく大きな湖になっており、青インクが広大に拡散してゆくというようなことだ、すべてのことはそのひとつの湖の中でせめぎあっており、何がどうなっているかは表面上のちょんちょんではわかりようがない、自分の踏み出す一歩が何なのか、それはとてつもなく大きすぎてとてもじゃないが認識は不可能なのだ。
ただ、そのとてつもない大きさを、なんとなく感じ取ること、それが感じ取られていれば、自動的にウハハハとなる、何しろ自分を押し込めている重い空気は、バラバラの小さなものでしかない、どれだけ気張ったところで、真空の大きさには勝ちようがない、生きているというのはノンフィクションの実在だけれども、真空の大きさに比べればまったく芥子粒みたいなものでしかない、それでもなんとか長生きしようとするのだけれども、なればこそ芥子粒をこの世界のすべてにするのは逆に不合理を極めてしまう。
踏み出す一歩が五十センチだったとして、その五十センチは計測可能だ、だからそれを「一歩」だと定義したくなるのだけれども、その一歩が実は湖のはるか彼方、何那由多かわからない広さまでつながって響いていくというのがわかると、もうわけがわからなくて、逆にウハハハとなる、そちらが真相なのだけれども、そちらの真相は一ミリも思議できないので、思議の人々はそういったことを忘れてしまおうとする。

われわれの努力は、針の先ていどだけれども、そのエコーがどこまで広がっているかは、急に人智を飛び超えてしまう。

その、人智を飛び超えたものは、いかにもありそうだとして、尊重していこうとすること、せいぜいそれぐらいしか、われわれにはやりようがない/針の先ていどのことは、われわれも薄々わかっていて、だから自己洗脳でもしないとやる気がしない、かといって真相のほうはというと、まるで計測できない上に、大きさが人智を超えているので、こちらもやる気どうこうというものは通用しない、またいわゆるオカルトとかスピリチュアルというのも、大半が、その大きな命を自分が切り出して理解できると思っていて、それでおかしなことになっていってしまう。
われわれにできることは、大きな命に、なるべく準じることだけ、できればその大きな命に合一することだけであって、この大きな命を切り取って理解のまな板に載せるというようなことは到底できない、こんな大きなものは、あればいいじゃないか、というのがまっとうな感覚だ/われわれが旅をするとして、どこを旅した、などということは知らなくてよいのだ、そうでないと小さなところを点検しにいってそれを旅だと言い張らねばならなくなる、旅はずっとわからないから旅でありえる。

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