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例えば二十年前のマジックと比較して2

し悪しの問題ではなく、二十年前のマジックと、現代のマジックは、完全に別ジャンルだ。
実際、僕の経験でいうと、目の前で実演すると、「怖っ!!!」という反応をされることが多かった、中には、文化祭などでは、現象を目の当たりにした女の子が、半泣きになって怖がって逃げていってしまったこともあった。
本当に別ジャンルなのだ、二十年前に僕がやっていたのは、むしろ「手品をやっているようにはまるで見えない」というものだった、にもかかわらず現象だけ手品として出現してくるので、「怖っ!!!」となる/僕は前もって、手品をやりますと宣言してはいるのだが、実演はまったくそのようには見えないので、観客は一瞬「コイツは得体の知れない"能力"を持っている!!」と錯覚する、それで恐怖が走る。
観客が少人数の場合、神経の弱い女の子などが、夢と現実の区別がつかなくなり、催眠状態になることがよくあった、「この人は本当にわたしの引いたカードがわかるんだ……」と信じ切ってしまって、ポーッと脳みそが浮いてしまう状態になる、そうして観客は「不思議なこともあるもんだ」と夢見心地で帰路につくことになる、観客は「すごいマジック」を見てテンションが上がったのではなく、「不思議なこと」を見て日常を忘れたのだ。

手品師はだいたい、トランプ(とは本当は言わない、カードという)やコインを使う。
なぜトランプやコインを使うかというと、それ自体が「妖しい」からだ、日常に見慣れたものでありながら、何か妖しい気配がある、そういったものを手品師は日常と夢の狭間をゆくための道具にする、妖しくないものは使わない、たとえば大根や自転車のハンドルや跳び箱は使わない/トランプやコインに刻まれている歴史や図柄そのものが元々「妖しい」ので、それを夢への入口に使っているのだ、そんなことを現代のマジシャンは考えないだろうが、二十年前の僕にとってはそれがむしろ手品の骨子だった。
現代の手品と、二十年前の(僕の)手品が、根本としてどう違っていたかというと、当時の手品は「魔法への憧れ」を土台にしていたということだ、手品への憧れではなく魔法への憧れがあった、それを擬似的に創り出すものとして手品があったのみで、その意味で手品は愛されていたし、僕もその意味で手品を愛していた/ほんの数分間でも、つい人が「魔法」の存在を信じてしまうということを愛していた。
実演上で、決定的に何が違うか? それは、手品の現象が出現したとき、<<演者である僕のほうも、「不思議だなあ」と感じていた>>ということだ、手品師である僕はその不思議を見慣れているというだけで、「不思議だなあ」と思わないことは一度もなかった、何しろ僕は、トリックをやっている意識などまったくのゼロだったから/つまりそれは、信じているものが違ったということ。

観客も僕も、無邪気に信じ、一緒に無邪気に驚いていた。

そこが現代と根本的に違う、現代のマジシャンは、技術においてはすさまじいレベルの人がたくさんいるけれども、無邪気というものではない、少なくとも現代のマジシャンは、やっている自分が驚くというようなことはまったくないはずだ。
だからけっきょく、マジシャンと観客のこころが寄り添ってはいないことになる、そうして別ジャンルになっていった、どれだけ高い技術とパフォーマンスを誇っていても、一緒に不思議に驚いた友人、というような感触は残していない、それは善し悪しではなく「別ジャンル」なのだ。

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