☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
<< やる気とやる霊3/ノーブースト主義 | TOP | 蔓延する非常なダルさ >>
わたしの世界が変容する
たしは自室で本を読んでいる――格闘家であられた山本KID徳郁(のりふみ)さんが四一の若さで夭逝されて、わたしは自身に露骨な心痛を確認もした、思いがけぬ痛みで自身が落下するような……すでに癌でお悪いのだという報せは仄聞していたが、にもかかわらずわたしにとって、縁遠いヒーローの一人だった彼が亡くなるということは、そのときがくるまで現実味の帯びようがなかったのだった。
まったく文学者の、悪い本性を発揮して、わたしはここに、わたしの世界の変容を受け取っている/このように世界を感じ取り、ないしは明視するということが、はたして知性によるものなのか、それとも度しがたい深さからの悪性によるものなのか、わたしにはわからないままだが、少なくともこの世界には、一般に知られている見え方とはまったく異なる見え方が存在する、その "異なる見え方" とは芸術・文学の本質であって、このことに想像力の欠片も触れられなかった者が、やむなくオカルトの門をくぐるようだ、それは醜態とも呼ぶべき笑劇であって、何かが明視されたことにはわずかもなっていない。
一般に知られている「わたし」という現象、およびその感触(実感)は、文学的に明視される「世界」の中には、まるで存在していないと感じられる、まったくどこかに消え去ってしまったというように/むしろ正当な、かつ極端な文学者のたぐいは、この一般的な「わたし」という感覚を得なかったか、あるいは器質的な障害によって取りこぼしでもしたのかのような存在に思える。
文学者は、単にグラビア・モデルのような女性の裸身を見てもオッとならないのみならず、それらを見てオッとなる人々のありふれた様相でさえ、実は眼に入っていない、むしろ文学者というのは、何もかもを己の文脈・文体の中に引きずり込む、悪魔の力の持ち主のようだとも取れる、これの最果てが光に結ばれているのか、そうでないものに結ばれているのかは、けっきょく僕にはわからないままだ/山本KID徳郁さんの早世を悼むと共に、彼の死がなかったことになればよいのにという、埒もない幻想に浸っているという告白をもって、わたしはここに個人的な追悼の意を表しておきたい、あの人は非常に危険な魅力を放っていて、その危険と魅力をどうすればよいのか誰にも見当がつかなかった。

生きる世界が変容する……文学者においては明らかに、人よりも言葉が先行する、彼は何かしらの世界を言語化しているのではなくて、言葉ないしは言語から生じた世界を、 "見せられている" のだ、それが福音によるものかデーモンによるものかは、誰にもわからない、当人にさえそのことは定かではない/ただすべての事象は、彼の文脈・文体の中に吸い込まれていく。
そのことは、もし直面的に見るなり言うなりするとすれば、 "人をナメくさっている" とも感じ取られるだろう、事実、人を根こそぎナメくさっているようなところがないかぎりは、何もかもを己の文脈・文体へ引きずりこむなどということが、躊躇のない反射神経のように繰り返されるなどということはありえないものだ、しかし彼はすっかりこのことを確信しているので……まるですべての供物を文脈・文体の祭壇の火へ放り込み、そこに噴き上がってくる炎がどのようであるかを心待ちにすることだけを信じている、ファナティクな神官であるかのようなのだ。
彼の満足はそこにしかなく、彼はけっきょくすべての供物を火にくべることに何らの痛痒も覚えられない、ただそこにもある一縷の望みとしては、そのような文学神官の性質が彼自身としてやめられることはなかったとしても、その繰り返されていく文脈化・文体化の中で、このような己のありようがいつまでも正しいのだろうか? という、恐怖は持ちうるようなのだ/これは今、わたしがわたしの話をしているのではなく、文学および文学者の話をしている、何しろわたし自身はもっと、抜け目のない男なのでね。
危険な魅力を放っていた、縁遠い一人のヒーローが逝去したことに痛みを受け、他ならぬわたし自身は今、ありふれて「生きたいように生きないとな」という思いを強くしている! わたしは文脈・文体の本質に愚鈍な者ではありえないが、思いがけぬ方向として、文脈・文体を破壊する力の佳さを示してみせる、文学者でありたいと望んでいる、ホラわかるか、他ならぬおれがそう望んでいるのだ、原稿用紙などという野暮ったいものが望んでいるのじゃないぜ。

突如原稿用紙が破られて、ヌッと主の顔が突き出されてくるだろう。

わたしは自室で本を読んでいる――かつてわたしは、そうした中で光を得る、 "可能性のある子" だった、よく感じ取られた文脈・文体の力に、何もかもがひん曲げられてゆき、影響づけられた果ての景色を、再定義の中に明視する……そうしたことを、わたしはごく当然にしてきた、けれどもわたしは、そうした光の中で、――自分自身に光が照っていないだろう? ということに、今となっては気づきえるわけだ、わたしはいつからかそうした道程を歩んできた者であるから。
文学、それも露骨な文学、その露骨さとは薄皮一枚の下でただちに "人をナメくさっている" ということでしか成り立たないが、そうした文学の力は、それぞれが自身の生きる変容自在の「世界」が在るのだということを知るのに、最も直截にはたらきかけて有為だろう、だがそれは大変に面白く有為ということに留まるものであって、この有為じたいが完成に至るものではない/しばしば露骨な文学者が当人として自殺に至ってしまうのは、やがて行き着く "文学の自殺" が受け入れられないからだ、力ある文学者ほど文学の自死を受け入れられず、引き換えに己が文学を――あまりにも愛して信じたそれを――抱えて自殺する方向へ追い詰められていく。
視点変えてこ | comments(0) |
コメント
コメントする










| /PAGES |