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マンスプレイニングとオカマ重用説2

は、生きていく中でどうしても、誰か「先生」「師匠」を見つける必要があるというか、少なくとも私淑するというところの、 "my lord" を見つけねばならないのだ、そうでないと本当にすべてのことをgoogleと匿名の「レス」から教わるしかなくなってしまう(それもそんなに悪いことではないのかもしれないが)。
そこで、マンスプレイニングの問題から、男性に教わるのは不可能だとして、新たにオカマを "my lord" に奉るということ、このことが真剣に検討されるべきなのだ。
つまり、仁義礼智信と作法とこころを教えてくれる "my lord" を、堂々と「マツコ・デラックスさん」だと掲げればいいのではないかということ、これはまったくリアルな話であって、思考実験として言っているのではない。
実際、今世界中のどの男性が、十六歳の女の子に向かって、「若いうちは勉強しなさい」と話したって、何の意味もなく、本当にただのセクハラにしかならないだろう、軽度であれ慰謝料が発生する/それに比べたらマツコ・デラックスさんが、「あんたねえ、若いうちにねぇ、絶対勉強しときなさいよ、そうでないとあなたが後悔するんだから」と言ったほうが、何万倍も純粋な効果がある。

以前も話したが、もう現代は、男性はダメなのだ、男性は男性であるというだけで、存在そのものがストレスになってしまう/いろいろフェミニズムの方面が声高に正論を唱えているが、本当の心情を言えば「世界中の男性が死滅というか、消滅してほしい」というのが本当の願いだと思う、それはどうしようもなく、切実な願いなのだ、それだけが己が命の恢復なのだと言ってもいい。
その願いは、なんとなくわかるのだ、何しろ僕も男性なので、逆にわかるのだが、きょうび男性は、自分が男性であるというだけでけっこうなストレスなのだ、今や誰でもオカマになれる才能があればよろこんでオカマになるべきだと思う、そうすれば誰も傷つかずに済むし有為に生きられる。
だが、オカマになれるというのもやはり一つの才能であって、ひとつの「選ばれし者」だから、誰でもがそうなれるわけではないのだ、少なくとも僕は自分が九折デラックスになれる気はまったくしていない、かつての石原裕次郎も裕次郎デラックスにはなれなかっただろう。
さしあたり、どうしようもない現実としては、オカマでない男に何かを「説明」されると、深刻に耐えがたい不快と、猛烈に許しがたいセクハラ感が湧き上がるのだが、これについてはしょうがないのだ、ストレスがあるのは大変申し訳ないが、「そうか、この男には、オカマになれる才能がないのだ」「才能がないのはお気の毒ね」と見てやることで、少しはストレスも軟化するのではないだろうか。

若い男性は、マネジメントを学ぶのではなく、オカマの精神を学ぶべきだ。

年齢と共に、何かを牽引し、下に何かを説明しなくてはならない立場になると、もうオカマの才能がなくては何も機能できなくなるのだ/どれだけブーブー言う怠惰な新入社員がいたって、「あなたねえ」とオカマが説教すれば一発なのだ、リアルな話この先は、ゼネラリスト向けにオカマ精神のワークショップが活性化していっても何もおかしくはない。
現代の男性は、本当に自制が利かないレベルで、アニメやアイドル、ソーシャルゲーム、そしてオナニーにのめりこんでいるところがあると思うが、それを「ヤバイ」と感じて自制しても、仕組みが違うのでけっきょく自制は利かないだろう/それらのヤバさは、自分がオカマになった途端にスッとすべて消えていく、そのことをいざというときのために覚えておいたらいい、自分がオカマになると決めた瞬間、男性の抱えているストレスは蒸発してどこかへ飛んでいってくれるだろう、それは現代社会のメカニズムなのだ。

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