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合理的に見たキリスト教の必要性

はゴリゴリの仏教徒だし、ちゃんとしたクリスチャンに知己がいないので、「キリスト教」というものがどういうものなのか、直接の体験として知らない。
ただ、聖書というのは一般にあるものだし、イエス・キリストのストーリィを、漠然と知ってはいる、逆にクリスチャンでも、日本人なら「ナムアミダブツ」ぐらいは知っているのではないだろうか。
宗教および帰依の問題ではなく、宗教「的」な暮らしにおいて、キリスト教の必要性はとても高いと感じる、仏教徒の僕だってイエス・キリストという人が偉大な聖人だったことぐらいは当然にわかるわけだし……
なぜわざわざ「必要性」なんて、不遜な言い方をするかというと、リアルに考えたいからだ、仏教は真理に富んでいるが、仏教はすべての "産業" からあっさり切り離される前提ですべてを教えている、それは究極的に真理なのだろうが、まだまだ産業と共に暮らしそうなわれわれについて、基本的にケアがないので、われわれは見放されているようでトホホと感じさせられてしまうのだ(もちろんちゃんと勉強したら大乗仏教の現世利益もちゃんと定義されているのではある、仏教では愛ではなく慈悲と捉える)。

あまり上手に言えないが、 "産業対抗力" としてはキリスト教に偉大な力があるように感じる、むしろ産業と共に暮らすのであれば、聖書およびイエス・キリストとその教えは偉大だったという情報が、不可欠なのじゃないかという気がする。
僕はどうしても、帰依の問題は別として、イエス・キリストへの尊崇と、仏教の真理性を認めることとに、衝突があるようには感じられないのだ、そして産業的な暮らしをする中で、イエス・キリストの情報ゼロというのは、危険というか無謀という感じがしている、どういう理由でという説明はうまくできないのだが、まあそんなもん説明で伝わるようなことではないだろう。
かといって、キリスト像に礼拝したり、ちゃちにアーメンと唱えたり、教会に通ったりして何がどうなるというわけでもないし、そういう安易な救済のつまみぐい発想はたいていロクなことにならんものだが、なんというか、言うなれば、われわれは産業においてホラー映画をいくらでも見せられるのに、ホーリー映画を見せられることはまったくないということなのだ、それはバランスが悪いのであって、これが割と冗談ですまないところがあるのだ(フツー気づかれないレベルで)。
われわれの国には神道があるから、浄穢については対抗できる、けれども「俗」に忍び込む「邪」に向けて対抗する手段がない、俗の反対は「聖」だから、聖というとキリスト教が代表なのだ/われわれが産業と共に暮らすというのは基本的に「俗」なことだから、「聖」の教えがないと産業の俗悪に対抗できない、特に最近の産業は俗悪を越えて邪というほどのパワーがある。

仏教は目的地を与え、キリスト教は目的地までのバリアを与える。

仏教は、特に根本仏教においては、「ん? 仏道を行くなら産業には用事ゼロじゃない?」と平気で言ってくるところがあり、しかも「産業に肩入れしてたらそりゃカルマ道に行きますよ」「目的地が与えられたら寄り道の必要なくない? だからバリアとか要らなくない?」と容赦のないところがある、それは真理としてはそうなのだろうが、われわれは筋金入りの「迷い」を行く人なので、いきなりナマの真理だけというのは辛すぎるのだ、「迷える仔羊」という実態へのケアはキリスト教のほうが充実している。
産業に仕込まれた俗悪が、血と霊にまで入り込まないように、合理的にキリスト教は必要だと感じている、神道のお祓いやお札は穢れたものを祓う力があるかもしれないが、あまり悪魔や呪いに対抗するものという感じはしないので……/それぞれ洗い物に対しても洗剤や漂白剤や消毒液が用いられるように、われわれはこの産業の中に生きるのならばキリスト教への基礎知識と尊崇が必要なようだ(ただしそれ用のヘンなアイテムなんか買ってこないように、ただ「勉強しろ」というだけの話だ)。

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