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力と光の等価性

「力」というのは、基本的に「重さ」だ、格闘技の話ではなく物理の話/力の単位は「kg重」「kgw」なのだから、力と重さ(実感的な「重さ」)が同質なのは明らかなことだ。
質量のある物体を、下から上へ持ち上げるとき、「力」が必要になる、上から下に下ろすときには「力」は必要ない/ご存じのとおり、物体が上から下に移動したとき、「エネルギー」が生じる、位置エネルギーが運動エネルギーになる、また原子核を取り巻く電子が下の殻に遷移するとエネルギーとして電磁波が生じたりもする。
われわれは一般に、上下関係というものを誤解しており、上下関係があると、上のほうが「力が強い」と捉えている、むろん社会的な上下関係だと上位側が「権力」を持っているのだが、これは本来の身分関係ではない/本来の身分関係として上下がある場合、上位側は「光をもたらす者」であり、下位側は「力を捧げる者」だ、力の行使をするのは下位側であって上位側ではないのだ。
何が起こっているかというと、われわれは、地に落ちて動物的なアホ発想に囚われており、つまり「弱肉強食」の原理において「強いほうがエライ」と誤解しているのだ、さすが地に落とされるだけのことはある、われわれはれっきとしたアホ軍団だ。

愛とは何のことを指すかというと、上位が光をもたらし、下位が力を捧げるという、物理に近い構造のことを指す/注目すべきは、同じ「愛」といっても、「下→上」と「上→下」で、異なる形態を持つということだ、もちろん物理的にもそういうもので、相対性理論によって質量とエネルギーは形が違うだけの等価物だということが確かめられている。
われわれは、うかつな平等思想に染まっているから見失いがちだが、同じ「愛する」といっても、上位が下位を愛するのと、下位が上位を愛するのとでは、同じ形態は取れないのだ/上位が下位を愛するときは、光が注がれるのであり、下位が上位を愛するときは、力を捧げるしかないのだ。
力は重さであって、重さの反対が光だから、この構造はけっきょく、「上下関係といっても、力と光のどっちがエライのよ?」ということに行き着く、地に落とされた側の思想だと力のほうがエライのであり、地に落とされていない側の思想だと光のほうがエライということになる/重さの果てには光は消失するし、光の果てに重さは存在しない。
一般に「愛する」というと、何か自分が誰かに「神聖な光をパーッと照らす」かのごときに捉えている人が多い感触がするのだが、これは危険なことだ、われわれがカミサマを愛したとして、われわれがカミサマを光で照らしたりはできない、自分が光の側を気取っていると、知らぬ間に地の底のものを愛していたりするぞ、そして地の底の者があなたに力を貸してくれたりするが、そのときあなたの向かっている先は地の底であって天上ではない。

重たい神輿を人力で担いで奉納するのは、「力を使い尽くす」ためだ。

「愛」というストリームは、下から上に向かうとき「力」であって、上から下に降り注ぐとき「光」なのだ/あなたが神社の賽銭箱に百円を入れると、神社に力を捧げたことになる、そして御神職はカミサマに力を捧げているので、今度はカミサマがあなたに力を……ではなく、光を注いでくれるだろう、上に力を捧げるとリターンは光になって降り注いでくるのだ。
もし逆に、あなたが神社の賽銭箱から、百円を盗ったとしよう、あなたは百円という財の「力」を得たことになるが、力を得たということは、必ず下位から得ているはずなので、あなたは<<カミサマのお金を盗ったのではない>>のだ、<<悪魔の箱から百円を借りた>>のだ、だからそのぶんの代償に、光をごっそり持っていかれることになる、それはカミサマに嫌われたのではなく悪魔と契りを結んだということなのだ。

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