☆いい女☆で行こう!

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力と光の等価性2

粋に、面白い仕組みだなあと思うし、同時に、近年のわれわれにとって、最も危険な仕組みがこれなのだと思う。
「愛」というと、神聖な何かで、光めいたものだと思っているのだ、これがよくない、どう善良なつもりでいても知らぬ間に自分が悪魔との契約者にバッチリ仕上がってしまう。
もしあなたのそばに、ガチで、神秘的というほど全身が愛に満ちた人がいたとすると、その人はまったく、あなたも含めた多くの人たちに、光をもたらすばかりの存在に見えるはずだ、そしてそれを見て「これが愛か」と学ぶということ、これが実は一番危なっかしい。
それは、そんな全身に愛が満ちている人は、相当身分が高いはずであって、身分が高いからこそ、その愛は「光」の形態で降り注いでくるのだ、その愛に応えようとしても、身分の低いわれわれはそういう形態の「愛」は発揮できない、下から上へは「力を捧げる」という形でしか愛を発揮できないのだ、そこを取り違えて学習するから、知らぬ間に自分が地の底の悪魔とバッチリ契約した者に仕上がっていってしまう。

仮に、カミサマが存在するとして、カミサマがもし自分を愛してくれるのだとしたら、その愛に応えるということは、光ではないのだ、力なのだ、注がれた光のぶん、己は力を使い尽くそうとすること/何かの信徒さんが山の上まで登って、貧乏なくせにご神体に金箔を貼り付けて祈ろうとするのは、己のささやかな力をそこに使い尽くそうとしているのだ、神秘的に信仰しているのではなく力尽くで信仰しているというのが、この場合は正しい。
このあたり、たぶんわれわれは、もう致命的に修正が利かないと思うが、愛というのは己が神秘的な光に満ちてドドーンとなる、ということではないのだ/甲本ヒロトがパンクロックを愛しているというのは、精一杯デカい声で歌ってそこに力を使い尽くすから、パンクロックを愛しているということになるのだ、神秘的な気分でドドーンではない、このあたりはもう致命的に修正が利かない。
われわれは誰だって、生きているうちに、聖なるものに触れたくて、聖なるものに近づきたいと望んでいるのだが、聖なるものに近づくということは、聖なる者の側の気分に近づくということではないのだ、向こうが光を使い尽くすのに負けず、こちらも力を使い尽くすということが、わずかでも聖なるものに近づき、それに触れるということになるのだ。
「愛」といって、愛が光の形を取るのは、上から下にだから、われわれが光に満ちたふうの気分でドドーンと自己感情に浸ると、その愛はやはり上から下に向かっていて、つまり自分より下位の、地の底に落ちた何かに「契り」を向けていることになるのだ、そうして自覚のないままに地の底の何かとバッチリ契りあっているものだから、もうある意味出来上がってしまっている人が多い/悪魔があなたに力を捧げてくれることになるから、あなたは力を得ることになるが、もちろんその契約はあなたの光を根こそぎ提供するという取り決めだ、それであなたの四肢は強い力をムラムラ起こし、そのたびになぜか人智を越えた「闇」みたいなものに取り込まれていく。

頭上の電灯に、電力を供給しなさい、電灯に照らされたら、あなたは勝手に輝いています。

誰でも自分の部屋でそうしているはずだ、自分が光るから電力をよこせといって、自分をコンセントにつなぐアホがいるか? 自分が明るく暮らすためには、電力会社に財力を供して、電灯に電力を供給すればいいだけのはずだ、その財力を得るにもまた、どこかで労働力を供しているだろう、それがごくまっとうなことじゃないか/あなたが光を愛しているということは、電灯を点けるのに力を捧げてしまうということだ、その神聖なことを蔑視する悪い風潮がこのごろは蔓延している。
一番まずいタイプは、「自分が光だと思うと、力が湧いてくるんです」というタイプだ、このタイプは傍目にはゴリゴリの闇タイプなのに、本人はそのことをなかなか自覚しようとしない/一般に、自分の力を使い尽くさずに生きているタイプは非常にまずいと捉えていい、そういうタイプがまた活動的には「活発」だったりするのだが、それはトリニティが逆回転して「力」が流入しているのだ、正しくは力が流出して光が流入してくるべきであり、光が流出して力が流入してくるパターンは大変よくない、そういうタイプは<<誰も自分に力を貸してくれない>>はずだ。

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