☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
<< 「ライトアップ」という盲点 | TOP | 第85回Quali's Party[10月20日(土)]無事盛会! >>
「偶像崇拝」という盲点

ぜか、クリスチャンやムスリムでなくても、われわれは漠然と、「偶像崇拝はいけない」ということを知っている/本当にいけないのかどうかは知らないが、「たしか、いけないんですよね」と漠然とどこかで教えられている。
どこかのお寺や、あるいは自宅にも、阿弥陀如来等の尊像が掲げられているところがあれば、その尊像の脇や裏には、ちゃんと「方便法身」と但し書きがあったりする、方便法身(ほうべんほっしん)とは、「本来、真如とは、わかりやすーい形を具えているものではないが」「それではわれわれのようなアホには理解不能なので」「やむをえず方便としてわかりやすい形を表してくださっている」「この形をそのまま崇めるのでは、本当はない、らしいぜ」という意味だ。
このようにして、いわゆる世界三大宗教が、偶像崇拝を警戒しているのだが、一方でわれわれはというと、「金メダル」とか「オスカー像」とかを、何の躊躇もなく崇拝しまくっている/力とライトアップの果てにある頂点のそれを、偶像に結集して崇拝しているのだが、なぜかこれを偶像崇拝とは誰も気づかないようにできている。
誰かが何か、巨大なピアノコンクールで優勝したとする、その優勝者には女神像のついたトロフィーでも贈られるかもしれないが、当然ながらそのトロフィーからは何の音楽も聞こえない、そしてわれわれの悟性には、何の音楽も聞こえないのに、トロフィーのパワーだけは燦然と輝いてわかるのだ、これではむしろ全力で偶像崇拝の道を突っ走ってきたかごとくだ、それが偶像崇拝だということはなぜか誰も気づかないし、誰にも教えてもらえない。

そして、金メダルもそうだが、そういうトロフィーは、たいていゴールドが一番偉く、造りも主張的で、「力」を顕示する趣となっている/そのあたりわれわれの性根は、豊臣秀吉とあまり変わらないのかもしれない。
そりゃ誰が考えても、アカデミー賞を受けた者に、木彫りの民芸品を与えようとは思わないわな/このように、われわれは日常、あっさり「力」に帰依しており、その周辺は何の躊躇もなく偶像崇拝に包囲されている、オスカー像をさすがに「方便」と言い張る人はいないだろう。
偶像崇拝という観点から考えると、あまり家に、不明な人形を連れて帰らないほうがいい、自分で連れて帰ったものはどうにも防ぎようがないからな/かといって、帰宅途中にトロフィーを大黒屋に売っぱらってしまえというのは、それこそボブディランぐらいでないとできようがない荒行だ、まあそういう偶像モンにはなるべく地位を与えないほうがいい。
偶像的なモンは、捨てちまえとはさすがに言えないのだが、せっかく獲得したトロフィーを捨てられないというのは、それこそ崇拝している証拠なのでもある、だからほどほどにして、あまり地位を与えないように、「何かくっついてきやがった」という程度にして、家族の一員にはせず、「おう、なんやお前」というぐらいで気長に扱うのがちょうどいい按配だろう。

偶像の反対は「理性」だ。

偶像崇拝を警戒するために、理性を崇拝すればいい、トルストイも言っているように、理性はステキなものだ、そして理性的に何かを信じられないなら、それは正しくわかっていないのだ、偶像崇拝というのは理性のない妄信者にうってつけのアイテムになる、しばしば偶像は<<理性を失わせる恣意的なアイテム>>として用いられている。
よくよく考えると、すっきりとした理性を保ち続けているステキな人、というのは世の中に数少ないものだが、この「すっきりとした理性」の中にいられない人は、意外に偶像の呪縛にかかっているというパターンが多いものだ、追及してみると当人の自室がお人形さんで一杯だったとか、そういう例は思いがけず多い(人形に限らず、部屋にモノが多い人は注意)。

正しく見ないとな | comments(0) |
コメント
コメントする










| /PAGES |