☆いい女☆で行こう!

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天国行きと地獄行きの分岐点3

存知のとおり、僕の書くものには、「自己紹介」の感じがない、ずっと僕自身の情報を元に書き話しているにも関わらずだ。
なぜ「自己紹介感」がないかというと、僕には、「○○をするわたし」という感覚がないからだ、僕には能動の方向、「わたしが○○をする」という感覚しかない。
なまじ僕自身に、「○○をするわたし」という、つまり「受」方向の感覚がなかったので、このことを見落としていたのだ、今もなお、このことは意識して捉えない限り、僕の中からは消えてしまう、僕にはこの「受」の発想じたいがない。
僕には「受」の感覚がないので、たとえば誰かに悪く言われたとか、侮辱されたとか、逆に褒められたとか、そういう「わたしが○○された」という感覚もない、僕にあるのは「わたしが○○する」という「行」の感覚だけだ/僕は努力して能動的になっているのではなく、発想の根本に能動の感覚しか持っていないだけだ。

人間が上昇するためには、いついかなるときも、目の前のものに「力を尽くす」ということが必要だ/力を尽くすからこそ、力(重さ)が使い果たされ、己の身に力・重さがなくなり、上昇するというのが正規の仕組みだ。
このとき、「行」ではなく「受」の発想だと、「○○するわたし」ということに、力(重さ)を集めてしまう、すると「わたし」に力が集まり、「わたし」が重くなっていってしまう、そして「わたし」は重さによって落下してゆき、重さゆえに「脱出不能」になる/「下降してゆき」「脱出不能になる」からこそ、それは「地獄/地の獄」と呼ばれた。
「行」という方向においては、「わたしが○○する」ということで、「わたし」の力(重さ)は無限の方向へ発散してゆけるが、「受」という方向は逆だ、何もかもが「○○するわたし」or「わたしは○○された」ということで、すべての力(重さ)が己の身に降りかかってきてしまう、すると物理的にブラックホール様態を形成していってしまい、ついには光をもってしても脱出不能という重力に到達してしまう。
今すでに、多くの人が、人に○○しろと「言われた」ならば、そのことを実行でき、あるいは「○○をするわたし」ということであれば、そのことを "魅力的に" 実行できるのに、何もなしに「わたしが○○する」ということでは、行動が能発できないはずだ、人が「力(重さ)」に帰依しているというのはそういう状態だ/魅力・権力・暴力・経済力・実力・努力という「力(重さ)」に動かされるパターンをやめなくてはならない、感受性の開発が一定のラインを超えると、もう力(重さ)の感受性に知性では対抗できなくなる。

魅力・権力・暴力・経済力・実力・努力/すべての「力」は、「死」への怯えから生じている。

人は、永遠の命でも得られないかぎりは、死に怯えつづけねばならず、死を遠ざけたいと願い、そこから力を欲し、力を希求することになる/この原理はそもそも、われわれが死に首根っこを掴まれて、死の掌中で悪あがきしていることから生じている、だからたとえどれだけの力を得たとしても、むしろその重さによって動けなくなり、死の申し子として地の底へ落下していくよりなくなるのだ。
つまりわれわれは、<<死を遠ざけるために力を得ようとするかぎり、この仕組みから脱することはできない>>、もし死の掌中たるこの仕組みから、脱出できるとすれば方法はただひとつ、生死ではなく<<「命」に力を尽くす>>ことだ、われわれはもし永遠の命を授かれるのであれば、「力」を得る必要はなくなる、これは信仰心の問題ではなく、数学的な仮想の問題だ。

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