☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
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楽しくてしょうがない

、露店でやっている「似顔絵描きます」の光景が苦手だった、今でも正直ちょっと苦手だ。
似顔絵は、だいたいデフォルメされているのだが、愉快にユーモラスにデフォルメされているのに、なぜか陳列された似顔絵の一群を見ていると、薄暗く陰鬱な気持ちになる。
一方で、しょうもないエロマンガでも、なぜか読んでいると、楽しくてしょうがない、明るい、光、と感じさせられることがごくまれにある/内容はいかにもバカげているのだが、エロマンガがバカげているのは当たり前であって、そうではない、特に理由なく、無性に楽しくなってしまうものが含まれている。
しょうもない登場人物と、しょうもない設定、しょうもないストーリィなのだが、なぜか楽しくてしょうがなくなる、エロマンガはいちおう読者を興奮させるために描かれているのだろうが、僕はもともとエロマンガで「興奮」という反応を持っていない/なぜか楽しくてしょうがなくなる、光、という現象があって、そのときにはいつも、不思議だなあと思わされる。

思いがけないことだが、おそらく、「愛」の問題なのだ、当のエロマンガ家は、アホながらこの世界を愛しており、僕の見かけた似顔絵屋は、人の特徴を見抜く目を持ちながら、この世界を愛していないのだろう/この世界を愛していない人は、自覚がなくとも、この世界に呪いをかけてまわる営みを、自動的にしてしまうように思える。
エロマンガ家と、似顔絵作家なら、きっと「よい絵を描こう」という芸術的な気負いは、似顔絵作家のほうが強く持っているのではなかろうかと、僕は想像する、だがけっきょくこの世界を愛していない者に、光を帯びたものを現出させることはできない。
おそらく、エロマンガ家のほうは、何しろバカげているので、この世界を愛しているなどという自覚は、きっと当人にないだろう、そしてひょっとしたら、似顔絵作家のほうが、人のことをよく見て、この世界を愛そうとしているかもしれない、にもかかわらず、光のありようは裏腹で、愛というのが努力ではなく、付与されるものなのだということがよくわかる。
しばしば、「光が得られない人のほうがシリアス」という、よく考えれば当たり前のことがあって、光が得られない人のほうが、愛うんぬんについて、強い意志や、強いこだわりを持っていることがある、シリアスな人は愛うんぬんについて、<<強い感情>>を持つ、だがその感情は愛ではない、愛とはときに自覚さえない悟性であって、グッとくる・こないでいえば、どちらかというと「こない」のほうに近いのだ。

何の悩みもない奴が描くエロマンガは最高だ。

何の悩みもない奴が描くエロマンガは、文化的にサイテーなのだが、だからこそ逆にサイコーということがある/一方、さらにその逆において、やはりシリアスな悩みに囚われている者が描く芸術――のようなもの――が、文化的に最高でありながら、よくよく見たらサイテーということもある、僕は最終的に、文化的にサイテーな奴でありたい。
何しろ、アホのエロマンガ家は、自分が上等になる気がないのだろう、その必要を感じていないというか……確かに、もし本当に、この世界を愛していたら、自分が上等になる必要はないのかもしれない、そういうものの現物を、たとえ一時的にであれ目撃すると、僕は楽しくてしょうがなくなってしまう。

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