☆いい女☆で行こう!

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Oh, 二種類の「わたし」がある!

ほほおおお、うぇえええい、ついに看破したぜ、さすがおれだ。
われわれの言うところの「わたし」は、二種類あるのだ、一種類の「わたし」しかないと思い込んでいるから、整合しないのだ。
「わたし」のアルファ状態とベータ状態があるのではなく、それぞれの「わたし」は異なる存在だ、ふたつの「わたし」は、表裏一体ではない、むしろまったく別モノと捉えたほうがいい。
ひとつのわたしは、キリスト教的にいえば「神の子」たる「わたし」、もうひとつのわたしは、「サタンの子」たる「わたし」だ、このどちらをもわれわれは生きられるのだ/うーん「わたし」そのものが二種類あるとはなかなか気づかんわな!!

「わたしが○○する」というときの「わたし」と、「○○するわたし」というときの「わたし」は、前者が「行(う)」のわたしで、後者が「受」のわたしだが、この二種の「わたし」は、「わたし」を捉える向きが違うということではなく、そもそも別の「わたし」なのだ、前者が後者になることはありえないし、後者が前者になることもありえない。
仏教的に言えば、「行」の「わたし」、「わたしが○○する」というときの「わたし」は、薩埵(さった)であり、それじたいが「僧」と捉えるべきだろう、一方で「○○するわたし」という、「受」の「わたし」は、それ自体が「カルマ」なのだ、ちゃんと仏典には「カルマが、わたしである」と書かれてある。
悪霊入りの「わたし」と、聖霊入りの「わたし」は、まったく別モノなのだ、あんぱんとクリームパンが別モノであるように/悪霊入りの「わたし」は、「○○させられている」という受のわたしであり、聖霊入りの「わたし」は、「○○している」という行のわたしだ、このことを指してトルストイは、「労働はよろこびだから」と言った。
そして、布教者が人々に聖霊を伝播するのと同じ仕組みで、悪霊だって人々のあいだを伝染するのだ、そしてわれわれの周囲は今、悪霊入りのグッズとパーソンであふれかえっている/悪霊って、「悪霊だぜオロロローン」というような、オバケチックな形で現れてくるのではない、実際に受けるのはその「力動作用」だけだ、「受」の「わたし」が目覚めるという力動作用があるだけで、それ以外には何もない、だからこそこのことはまったく気づかれない。

今多くの人の自室は、本棚にマンガがキチッと並び、テレビがあって、スマートホンがあり、SNSがあって、身体を鍛えるバーベルが少々あり、ちょっとしたトロフィーと賞状があって、「わたし」はどこにもないのではないだろうか?

察するに、今多くの人はそういう部屋で暮らしているのだが、これが悪霊包囲状態の実物なのだ、無理無理、こんなの自分で気づけるわけねーよ/人々はみな善良なのだが、善良でも悪霊入りのサタンの子としての「わたし」が生きて活動しているなんて、気づけないし発想できるわけがない、この善良な人々が互いを包囲し合ってサタンの子たる「わたしたち」を保護しあっているのだから、よくできた話だ、こりゃ善良な人ほどこの組合から脱出できねえじゃねーか。
人々はみな善良であって、善良な人ほど、他人のことを尊重し、重視しようとしているのだが、そうした善良な人々の組合は、それでいて互いにまったく愛し合うということが起こらない、そりゃそーだ、愛し合うという仕組みは聖霊入りの「わたし」がやることであって、悪霊入りの「わたし」はそんなことしないからな、悪霊入りの「わたし」は、重要・重視・尊重・丁重と、互いに「重さ」を掛け合うことをする、重さは力だから、このことは人々の権力・暴力とつながっており、また「魅力」ともつながっている、うーんこんなことにいきなり気づける奴があってたまるか!!/とにかく二種類の「わたし」があって、それぞれは別個のものだ、この包囲状況でもう一方の「わたし」が覚醒することなんて、ほとんど不可能だろう、たいへんマズイ状況だがこれはわかりやすい状況でもあるのだ。

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