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競争原理に仕込まれた「横一列」という罠2

持ちおじさんは、同期がやっているお笑い研究会に、バックアップの送金をすべきだ/そのほうが女に尊敬される、女から尊敬され、また女を実際に救済するためには、男が(オトナが)「買い物」という発想のくびきから脱出してカネを使わねばならない。
新しい価値観を見つけ、新しいライフスタイルを肯定せねばならないのだ、そしてこのライフスタイルはきっと、いつかの時代には当たり前にあったスタイルなのだ、それが完全に忘れられてゼロになったにすぎないだろう/むしろ現代のほうが、感受性で「買い物」だけに支配されている、このことのほうが歴史上に異常な光景のはずだ。
感受性は、力への反応で、男は多く金力を権力に(支配力に)変換し、女は金力を魅力に変換する、だから金持ちおじさんはキャバクラでホステスたちにお小遣いを与え、女たちはそれでエステに行き高級バッグを買うのだが、この関係は互いを感受性において「好き!」と受けさせる(受ける=グッとくる)ものだけれども、それでいながら相互に尊敬はまったくせず、相互に軽蔑しあうことになる、それは人間の悟性が「感受性」の貧しさと、不穏と滅びを見抜いているからだ、特に女は、感受性に支配されながら、自分も含めたその感受性の徒を軽蔑しきっているところがある(男はだまされてはいけない、感受性で「好き!」と言われることは、おうおうにして気楽さと軽蔑を含んでいる)。
つまり現代のわれわれは、感受性において、力で力を購入すること、自分が「グッとくる」ということにカネを使わされることに、慣らされて、それ以外のことにカネを使わないように訓練されているのだが、これは危険な状態だ、危険という以前に不当な状態でもある/なぜ「グッとくる」、感受性のエサにしかカネを出さなくなったかというと、寂しくて、ストレスがあるからだ、パチンコで毎月数万円を使う人はいくらでもいて、彼らは必ず「人の趣味で、娯楽なんだから、放っておいてくれよ」と言う、ただしその発言の当事者が不穏でなかったためしはないし、そのことをこころの底から愉快な生きがいと当人もまったく信じてはいない。

横一列に並べることで、供与の関係を絶ったのだ、だから近所の兄ちゃんが勉強を教えてくれるということもなくなったし、近所のおばちゃんが夕食のおすそわけをしてくれるということもなくなった/近所の兄ちゃんが勉強を教えるためには、近所の兄ちゃんが「上」でなければならないし、また近所のおばちゃんが近所の兄ちゃんに差し入れするにも、近所の兄ちゃんが「上」でなければならない。
横一列に並べることで、上下関係は、優劣の関係、優等と劣等の関係にすり替えられたのだ、だから近所の兄ちゃんが東京大学に合格したら、近所のおばちゃんは劣等感を刺激されることになった/もし夕食の差し入れをする関係であったら、「あの兄ちゃんはやっぱり東大に合格したよ」「やっぱり、あの人は子供のころから、みんなの先生だったものねえ!」と、本来はお祝いの宴会ができる出来事であったはずなのに。
横一列に並べるということは、「隣の家ともバトル」ということなのだ、庭の手入れひとつ、となりの家に負けてはならず、だからこそ、隣のばあさんに庭の手入れを習うこともできない、習おうとしたら金力でそのノウハウを購入するしかなくなる、たとえそれで手入れの方法を購入したとして、何に使うかといえば隣の家とのバトルに使うだけだ。
新しいライフスタイルを見つけ、肯定しなくてはならない、買い物をやめて上下供与の道を探るのだ、そして上下のどちらとも、「課金に二万円使うより確実に楽しかった」「ストレス解消に二日間を使うより確実に楽しかった」と言わしめる責務を負う、現代のわれわれが異常なのだ、すべての余剰エネルギーを感受性に奉納しているという、すでに悪魔の道を歩かされている。

「横一列バトル」を否定する、最大の直撃方法は、「上下供与」をすることだ。

横一列で譲り合ってはいけない、それはヒューマニズムに過ぎず、横一列バトルの休憩タイムにしかならない/むろんこのことに、感受性が抵抗するのは知っている、だが同時に、悟性が首肯するのも知っている、これは価値観が何を肯定するかが定まれば、あっさり逆転し、もう元の道がとんでもないバカだということがはっきりわかるようになるだろう。
このことは、まだ「納得」が得られる段階には状況が至っていないが、それに先立って「保証」を僕から表明しておきたい、女性がきれいになるために必要なものは、グッとくる高級な化粧品の購入ではない、バトルにすさんでいる人間がうつくしくなれるはずはないのだ、唯一の道は相互の供与、しかも決して横一列にしない意地になったような上下の供与だ、上は息切れするまで供与し、下も息切れするまで供与する、そのことで必ず「つながり」が生じ、誰とのつながりを生きたかということの中で、作り物でない「生きた」ということから生じるうつくしさを手に入れることができるだろう。

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