☆いい女☆で行こう!

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愛は基本的に「ない」のが当たり前

ちら大阪出張中、憮然とする日々が続いている。
びっくりするほど明確な、「愛のなさ」を目撃するのだが、逆に冷静になってきた/そもそも「愛」というのは、一般的には「ない」ものなのだ、これについてはやはり仏教が正鵠を射ている、多くの人は本当にカルマでしか生きていない、「100%ピュアカルマ」というのが、思いがけず正しい。
仏教では「愛」も一見、悪くいうのだが、おおむね仏教説・畜生道で言われている「愛」というのは、キリスト教で説かれている「愛」とは意味が違う。
「愛」といって、たとえば徘徊する老人が通りすがりの女子中学生をこころの底から「欲しい」と思ったとして、それがどれだけ熱烈であっても、そんなものを愛と呼べるだろうか、呼べるわけがない/愛というのはそういうオゾマシイ因業(カルマ)のことを言っているのではない、たいてい本人は大マジで愛のつもりだけれども(だからこそ一層オゾマシイわけだ)。

冷静に考えて、「愛」というのは、基本的には「ない」ものだと思う、ここを曲げるから話がおかしくなるのであって/なぜなら、愛がもう「ある」のなら、イエスキリストはわざわざそれを説かなくていいじゃないか、イエスキリストは自転車にブレーキを与えなさいとは説かない、なぜなら自転車にブレーキはもう「ある」からだ。
「愛」は、基本的に「ない」のだ、<<だからこそ、倫理と道徳が重要になる>>、基本的に「愛」はないからこそ、人は善人であることが尊ばれるのだ/ただし、<<善人は最後の最後で裏切る>>ということをお忘れなく、善人も正義も最後には裏切るのだ、おそろしい話だが、誰だってやがて知ることだからしょうがない、先に仄聞しておくほうがいい。
「愛」は、基本的には「ない」もので、それを得ようとすると、特別に学び、特別に触れ、特別に会得する必要があるのだ、血縁なんか関係ない/血縁は、カルマの継承が影響しているというだけで、それは愛の現象とは異なる、親は子を愛するわけではまったくないし、子が親を愛するわけでもまったくない、親子の絆は血縁(カルマの継承)であって愛ではない/ジタバタしてもしゃーないのだ、しのごの言うのをやめれば「愛」という現象が何なのかはそんなにむつかしくない、シンプルでわかりやすいものだ。
愛を理解するということは、同時にカルマを理解するということでもある、集合的に「カルマでないもの」が愛なのだから/愛がわかりにくいということはないのだ、愛がわかりづらいように錯覚するのは、単にカルマを愛と言い張ろうとすることに未練が残っているだけだ(カルマは消えないにせよそれを愛と言い張るのはさっさとあきらめたほうがいい)。

彼の目の前で、何でもないぬいぐるみを「えーい」と蹴ってみたとき、彼が急変して「殺すぞ」と詰め寄ってきたら、彼は愛の人だ。

倫理・道徳の人、あるいは正義と善意の人は、「やめなさい、かわいそうでしょ」と、 "勧善" によって諫めようとするだろう、勧善というのはいい言葉だから覚えておいたらいい/倫理道徳、正義と善意の人は、いきなり「殺すぞ」にはならない、彼らは「悪に眉を顰める」というだけで、愛を守ることに命を帯びるわけではない。
仮に、尾崎豊の前で、あるいは甲本ヒロトの前で、さらにはマイケルジャクソンの前で、ぬいぐるみを「えーい」と蹴ったらどうなるだろうか、尾崎と甲本は急変して詰め寄ってくるだろうし、マイケルはステップインしてきて「NO!」と怒るだろう、 "急変" というところがポイントだ/このように、愛のあるなしは簡単に判別がつく、愛が「ない」という当たり前のことを歪曲しなければ、愛そのものはわかりやすいのだ。

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