☆いい女☆で行こう!

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愛は基本的に「ない」のが当たり前2

は「ない」のが当たり前というのは、「鏡にテレビ番組は映らないのが当たり前」というのと同じだ、鏡は液晶ではないし電源もアンテナもつないでいないので、鏡にテレビ番組が映ると考えることのほうがおかしい、機能がなくて当たり前だ/それと同様に、愛を学ばずに生きてきた人が、愛の機能を持っていないのは当たり前だ、たた常識に反するから受け入れにくいだけで、でもこれは単純に常識が間違っているというか、常識があまりにデタラメすぎるのだ。
あまりにもはっきりした、愛のなさを目撃するので、逆にわかるのだが、愛のない人は、すべて「自分が楽しいから」という理由しか持っていない、その他のすべては芝居であってフェイクだ、人にやさしいとか愛があるとか「思われたい」からそういう芝居をするだけだ、人は他人の死に対してさえ、そういう演技をして自分の点数を稼ごうとする/それは業が深いということではなく、それが「当たり前」なのだ、そんなまさかと思うのは若い人としか付き合いがないからであって、この先老人と接触するようになるといずれわかるようになる。
だから、愛がない人はないのであって、それを当たり前とし、あくまで<<だまされてはいけない>>、愛をいいかげんに捉えていると、自分がだまされて大きな損をするだろう、だから「愛」を捉えることには一ミリもごまかしがあってはならない/いいのだ、愛がないと感じられる人は、愛が「ない」とみなしていいのだ、カラカラのカラッケツだと断定していい、どれだけ柔和そうで善良そうでも、愛のあるなしには関係がない、このことについてだけは一ミリもだまされてはいけない。
愛がないのは恥ではなく、むしろ「愛」なんてものを持っている人が、奇妙で不思議でヘンな奴なのだ/なんのことはない、愛というのはたとえば、野良猫に鳴きつかれて「つい」エサをやってしまうような人が、愛の持ち主だ、ただそれだけのことだが、果たして野良猫に「つい」エサをやってしまったことがある人は実際にはどれだけいるのだろうか、言い逃れができないように言うと、野良猫に「つい」エサをやってしまったことがある人は、具体的にコンビニにどのような種類の猫のエサが売られているか知っているはずだ、それを知らないということは、野良猫にエサなんかやったことがないのだろう。

突然だが、愛というのは、何も誇るようなものではない、誇ってはいけない/確かそういうことが、アタリマエに聖書に書かれていなかっただろうか、別にクリスチャンでなくても一般的な教養の中に、「愛は誇らず」というような知識があるはずだ、愛は誇るものではないし、誇ってはいけない。
どうも、僕の経験上、愛の「ない」人のほうが、こぞって愛を誇ろうとする傾向があるような気がする/本来、愛というのは、愛する対象に向けて成り立っていればそれでいいのであって、それを他人に誇ったり、あるいは当事者に対して誇ったりは、する必要がないというか、する動機がない。
愛を「誇る」人は、けっきょくそれをすると「自分が楽しい」から、愛を誇っているのだろう、じゃあやっぱりそれは愛じゃないな/僕は新小岩に住んでいたころなど、ほとんど毎日のように野良猫に鳴きつかれ、そのたびにコンビニにエサを買いに戻っていた記憶があるが、そんなことをいちいち人に「誇る」とかいう、アホなことはさすがにしない、そして野良猫にエサをやるのは近所迷惑だが、僕はもともと近所迷惑な奴なので、僕を近所迷惑性で避難することは的外れだ(新小岩の住民はみな、それを近所迷惑だなどとはまったく捉えていない感じではあったが)。
男は、女とヤレるとなったら何時間か電車で移動するし、女も、ハイブランドのバッグが安く買えるとなったら何時間でも移動するだろう、それなのに猫ちゃんが腹を空かせて「ニャー」と鳴きついてきたときには、数分の道を行くのが惜しいかね、自分が楽しければ何時間でも走るランナーがいるのに、猫に鳴きつかれた場合は「面倒くさい」か、まあ面倒くさいのはわかるけれども、それはやはり愛が「ない」のだ、このように愛が「ない」というのはごく当たり前で、大多数の主流を占めている事実なのだった。

野良猫が「かわいい」からエサをやる人に、愛があるのではなく、野良猫に鳴きつかれて「しゃーない」から、エサをやる人に愛がある。

本来、こんなアホなことは、わざわざ説明する必要もないことだ、ケースAとケースBを考えた場合、A.石原さとみが「体調悪い」と言う、B.僕が「体調悪い」と言う、として、ケースBのほうに「えっ、それはいけないね」と心配してくれるというのは、愛がなければ不可能だ、比べて前者Aのほうは、スケベごころがあれば誰でも心配する、つまりホモでない男性の全員が心配するだろう、そんなことで愛が成立すればこんなに簡単な話はないのだが、そういうことではないのだ/石原さとみさんとチョメチョメする空想をしたら、「自分が楽しい」から、心配したような気分になるだけだ、自分が楽しいという理由しかないのだ。
より正確に言うと、誰かが「体調悪い」と言ったとき、心配する人に愛があるのではなく、「焦る」人に愛がある、やはり急変がポイントということになる/愛のある人は、他人の失調を知ると、「えっ」と血の気が引くのだ、意識的に反応するのではなく、生理的に反応するのだ、だから愛の「ない」人がふつうであって、愛の「ある」人など異常で不思議なものだ、あなたが「体調悪い」と言ったとき、「えっ」と血の気の引く人が愛の人だから、それが具体的に誰かを考えたらいい、ただし念のため、血縁はカルマの影響があるので、愛の関係ではない、自分の娘だけでなく隣の家の娘さんに対しても、「インフルエンザで」「えっ」と血の気が引くなら、あなたの母親は愛の人だ(ただしそんな人は本当にものすごく少ない)。

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