☆いい女☆で行こう!

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ホーリーマンという生き方
ンドの聖地バラナシにいくと、毎朝、婆さんが野良牛に花輪をかけていた。
その婆さんは昼間、バージャール(バザール)で野菜を売っていた、むろんそういう暮らしなのだと思う。
牛に花輪をかけたって、コストが掛かるだけだし、毎日座って野菜を売っているだけでは、未来がないよと、現代のわれわれは考えるかもしれない(実際、当時の光景が今も続いているのかどうかは知らない)。
だがもし、婆さんが、毎朝牛に花輪をかける「ため」に生きていたとしたら、どうだろう、毎朝牛に花輪をかけるためにバージャールで野菜を売っている/もしそうだとしたら、婆さんの人生は割と大成功といえるのではないだろうか、インドでは牛は神聖なものとされているから、ありえない話ではない。

「牛に花輪をかけるために生きている」というと、アホみたいだが、かといって「マイホームを買って家族を養うために生きている」というのが、ただちに誇りになるかというと、そちらもあやしいものだ、もともとわれわれは何のために生きているのかわからないのだから。
人によっては、たとえば毎朝神社に行って「今日も健やかに過ごせますように」と祈念して暮らしているかもしれないが、実は健やかに過ごすために参拝しているのではなく、 "参拝するために健やかに過ごしている" のかもしれない、自分の気づかないところで。
健やかに過ごすためには参拝しなきゃ、という発想は、単に信心深い人だが、参拝するためには健やかに過ごさなきゃ、という発想のほうは、一種のホーリーマンだと思う/だいたいわれわれは、自分のためにカミサマを使おうとするもので、カミサマのために自分を使おうとはしない、その例外にあたるのはホーリーマンだけだ。
われわれは、「生きていくために暮らしている」のだが、その中に神聖なものはあるのだろうか、ないのだろうか/「神聖なもの」などというと、笑い種にしかならないが、僕も同様に笑いながら、実はこっそり、僕は婆さんが牛に掛けた花輪をハサミでちょん切る気にはなれないのだった、われながらひどい裏切りだ。

生きるのに理由はない以上、牛に花輪をかけるのにも理由はない。

理由は結局、「生きるため」か「神聖なこと」の、どちらかに行き着くのだろう、「神聖なことがなきゃ生きていけない」のか、「生きてなきゃ神聖なことができない」のか。
前者のほうは、生きることのために神聖さが供されているので、あまりオススメできない、生きるために神仏に祈るのではなく、神仏に祈るために生きているという人がこっそりいると思うが、そういう人は種類はどうあれホーリーマンなのだと思う。
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