☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
<< 生存本能について | TOP | WS報告017(3)/「空間のYes」 >>
WS報告017(2)/「言葉」につながるハンドサイン
「言葉」の獲得に向かって、ワーク群は組み立てられている、まさかそのことを見通せる者はいないが、僕はきっちり把握してやっており、最終的に「全部ここに来るのか」とおどろくべき瞬間に到達するように設計してある。
すべては、「言葉」と「呪い」を分離するためにやっている/われわれが現在、言語を「パワーコミュニケート」に用い、言語を「呪」とし、実は「言葉」はまったく使えていない(し、得てもいない)という状況がある、これを鑑み、決定的な脱却をはかるために、ワークショップを敢行している、そして言葉は世界であり愛であるから、言葉を取り戻したとき、世界そのものと愛そのものを取り戻すだろう。
「言葉」を得ようとし、「言葉」に正しく向かおうとするとき、窓からはなぜか、いつも特定の春の匂いがやってくる、秋のはずなのに春の匂いというのは奇妙なことだ、そしてこの特定の春の匂いを、ほとんどの人が知らない、きっとこの春の匂いに直撃されたら、初めての人はしばらく泣き崩れるのではないだろうか、僕でさえいつも引き返せないほどこころが震えるのだから。
現在われわれのあいだに、「言葉」は交わされていない、だから記憶の中に「○○さんの言葉」というのが残っていないはずだ、たとえ両親であろうが教師であろうが/にもかかわらず、日々「グッとくる」とようなことが、言われたり聴かれたりしているように思えるのは、その「グッとくる」というのが、語感のとおり実は「力」であり「重さ」だからだ、言葉ではなく重さと力でコミュニケートしているのだ、だからこれをパワーコミュニケートと呼んでいる、言語をパワーコミュニケートに使う以上、これがカルマ創出の源泉になってしまって、身が軽くなること・光を帯びることからは遠ざかり続けてしまう、そうするとやがて行き着く先は、重大なことを追いかけて生きたはずが、「重大」という重さのものはすべて消えてしまったというゴールなのだ、この悲劇を否定するために、われわれは言葉に到達するワークショップの只中にいる。

いきなり言語そのものを「言葉」にするのはむつかしいものだ、それで初めは紙コップを使ったりする、そして紙コップをピースやらサムアップやらハイファイブやらの、「ハンドサイン」に換えていく/この手続きの中に、実は「言葉」の本質が隠れている。
Aさんがマスター側、Bさんその他がプレイヤー側に立ち、Aマスターからハンドサインが正しく示されるとき、事象の風向きはAからBたちに流れているのではない、風向きはBからAに流れ込んでおり、続きAからハンドサインに流れ込み、ハンドサインからBたちに流れているのだ、つまりAさんとBさんたちの二者がいるのではなく、もう一人ナゾの登場人物がある、それが「言葉」だ。
いわば、「AさんBさん言葉さん」の三者がある、そしてそれぞれは孤立した個人ではなく、風向く先の従僕なのだ、こうすることでわれわれは虚しい孤立吾我をやめることができる、このことをトリニティと呼んでおり、正しくこれに接続すると、自分が「生きる」ということの大前提からひっくり返り、感覚も観点もすべてのものが別モノになる/われわれは、己自身が「言葉」に仕えるものになるか、そうでなくとも、「言葉に仕えるもの」の存在を見分けられるようにならねばならない、そのことでしか孤立したパワー個人をやめることはできず、孤立したパワー個人はそのままパワーに帰依して滅んでいくだけになるのだ。
一部の人は気づき始めたが、実は常時のこととして、僕からみんなに向けて、一般的ではありえない膨大な量の「言葉」が飛んで出ている、それはつまり、ハンドサインの昇華したものが無数の群となり、一連の脈をもってひとつの体となり(文脈・文体)、降り注いでいるということだ/僕から降り注いでいるわけじゃない、僕が「降り注ぐ元」に接続する方法を知っているというだけだ、その意味で僕は何も偉くないが、「降り注ぐ元」そのものは、きっと誰にとっても偉い何かだ、誰だって死後、この偉い「降り注ぐ元」のところへ行きたくないか、その逆の「重力の根」に吸い込まれていくよりは。

人前に立つと、緊張・硬くなる・固まるのは、こころの問題じゃない、力のトリニティに所属しているせいだ。

人前に立つと、緊張して硬くなって固まるのが一般的だが、これは単に生理的な問題ではない、むしろそうして「生理的」なことが起こるということが、力(重さ)のトリニティの "具現" なのだ、<<「言葉」が出てこない代わりに「力」が出てきている>>と捉えていい、所属しているトリニティの実体が出てきているのだ、テクニカルな問題ではまったくない。
「AさんBさん言葉さん」の三者、もしくは「AさんBさん力(重さ)さん」の三者が、常にその場にありうるということ、前者のコミュニケートは知性と悟性で為されるが、後者のコミュニケートは力と重さで為される、だから「パワーコミュニケート」となる、パワーコミュニケートは相互に身を「重く」していくので、加齢と共に人はコミュニケートを「しんどいもの」と実感するようになる、それで老人はカネと引き換えにしか人とコミュニケートできなくなる/力のトリニティは力と重さそのものが「グッとくる」という手ごたえで確かめられながら進行していく、一方で光(愛・Yes)のトリニティは、「ハッとなる」・解き放たれる・フッと軽くなる、という手ごたえで確かめられながら進行していく(紙コップやハンドサインを使いながらこんなことに接近していこうとしているのだ)。
そのほか | comments(0) |
コメント
コメントする










| /PAGES |