☆いい女☆で行こう!

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「殺す」という機能

ぜかわれわれには、何かを「殺す」という、意志と機能がありうるように、元から具わっている。
元から具わっている機能は、使わないとインチキなのだが、かといって実際にホイホイ殺害したら、それはただの狂人であって犯罪者だ、そういうつまらないものは一番よくない。
原理的に、「殺す」といって、殺すことについてワーッと感受性が盛(さか)るのはダメだ、大ハズレもいいところで、感受性の強い人はとにかく善人でいるしかない、やけくそになっても光はまったく与えられない/光は学門の果てにしか与えられないのだからしょうがない。
「殺す」というと、何かおおげさだが、たとえばスーパーマリオをやっていれば、クリボーやクッパを「殺す」じゃないか、「殺す」というのはただそれだけのことだ、そのときにウキーッと燃えさかる人は大ハズレであって、「殺す」という機能それ自体はそもそも感受性とは無関係なもので、ただ仕留める・終わらせるということだ/イエスキリストだっていちじくの木を枯らしている。

しばしば、「愛」と「殺す」は接続しているのだ/このことは、女性のほうがよくわかるかもしれない、どことなく女性は、真に愛のある男に対して「わたしを殺してほしい」というヴィジョンを持つことがある、あるいは「この人になら殺されてもいい」「殺されるならこの人がいい」と、どことなく感じることがあるものだ。
なぜ「愛」と「殺す」が接続することがあるかというと、内在的に、殺されることよりも感受性のほうがサイアク度が高いということなのだ、殺されてしまえば感受性はなくなるので/つまり、愛の中で、感受性なしに殺されることが叶うのであれば、感受性に振り回されて生きながらえるよりも「多分、いいのだと思う」という直観があるということだ、まあ実際には、感受性なしに殺すなどというのは凡人には不可能な話だし、逆にサイコパスなんかは感受性のカタマリだから誤解してはならないのだけれども……
だから、「殺す」および「殺す機能」といっても、実際に殺害するのは基本的にハズレなのであって、殺す対象は「感受性」なのだ、説明がむつかしいが、特に女性は、殺す機能の発現している男性に触れると、根源的な感受性が鎮静して、決定的な安らぎと肯定を得ることがあるのだ/逆にいうと、殺す機能のない男とは、どれだけ関わっても、自分が自分のタチの悪さを鎮められないという不本意の直観が、女性の内部にしばしばあるということ。
とはいえ、どこまでいっても、殺す機能が完全な静寂のうちにあるというような人は、もうかつての剣豪とか聖人とかでしかありえないので、われわれにとって現実的なものではない、あくまで原理と概念だけ知っておくべきで、このことに鼻息を荒くする人は確実にハズレなので自覚してションボリするように。

自分を殺しに来た暴漢を目の前にしたとき、完全な静寂に至って戦える男なら、女に「ありがとう」と言われる資格がある。

「殺す機能」うんぬんをいうなら、男はまず自分が死地に立つことを想定しなくてはならない、自分が死地に立ったときわずかでも力が入ってしまうようなら、「殺す機能」で女の感受性を鎮静させることはできない、どんだけレベル高い話なんだよという気がするが、数十年前に戦争で散華していった若者たちの中には、そういう人たちもいたのかもしれない、彼らから見たらわれわれが「どんだけレベル低い話なんだよ」ということかもしれない/そういう男だけがやはり女たちにとっては別格なのであって、実際に静寂と勇敢さのシーンを十や二十も創れていないわれわれが同格ぶろうとするのはとんでもないレベルでおこがましいだろう、われわれって実際には市井のDQNにさえビビるわけだし。
己の死地に静寂で立って戦える男は、静寂のまま「殺す機能」を発現することができ、この機能の前で唯一、女の感受性は根本から鎮静する、このとき女は全身からまったくアホ女ではなくなれるのだ、自分の全身が急にアホ女ではなくなり、それがうれしくて不意に「ありがとう」という言葉が出てくる/あくまでそういう、原理と概念があるという話、もともとそんなレベルに立てている男なら、えげつなくモテているはずなので、モテない男の工夫策には一切なりません(お互いがんばりましょう……)。

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