☆いい女☆で行こう!

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恋あい論への準備
々、恋あいについて、わかりやすくまとめて書こうと思っている。
要は、「感動」と「感受性」が真逆だということだ/「動」と「受」が反対だということ。
そして「感動」の両者が出会うことが、当然ながら本来の恋あいだ、感動は何によってもたらされているのだろう、それはさしあたり感受性とは逆の「悟性」に起こっているのは間違いない。
思春期・青春というのはけっきょく、この感受性と悟性のせめぎあいと対決だ、どちらが勝利するかによって、それぞれの行く先は分かたれていくことになる。

多く、この感受性と悟性の対決は、表沙汰にされず、こんにちではもはや「見当たらない」。
なぜかというと、多くの人は幼い内から、感受性の過剰・悟性の貧しさを仕込まれて育っているので、思春期・青春のころには、もうせめぎあいや対決どころか、「何の戦いがあるのか正直よくわからない」という状態になっている。
それで、悟性なしに感受性をボンバーさせていたら、恥ずかしいし友人も失うし本人も感情でドロッドロになるので、心身の機能そのものを凍結・抑圧し、気取ったふうのキャラを続けるのだ、これで現代の、「互いに打ち解けないけれど低温度で和やか」という状態ができあがっていく/どの方角を見ても今、心身の機能をフル発揮させて向き合っているというような光景はどこにもない。
「さとり世代」というような言い方がされたが、それは大いなる誤解だ、そしてその誤解のフタは、もう開けないほうがいいぐらいのヤバさを地下に封じている/さとり世代は、何を悟っているわけでもまったくなくて、フタをいじっても破滅しか待っていないということを知って、途方に暮れたまま、諦めているのだ、誰も何も教えてくれないし……その状況が切迫を極めているので、人々は吹けば飛ぶような淡泊さを続けているにすぎない。

男女二人が、よりそって深呼吸をしているところさえすでに目撃できない。

周囲の光景でもいいし、メディアでもいいしインターネットでもかまわないが、「感動」を帯びると言いうる光景を、今現代のものとしてどのように発見することができるだろう? シビアに考えて、「感動2018」というフォルダを作ったとして、その中に保存できるファイルがあまりにも見当たらないか、もしくはまがい物に満ちているのだ/三ヶ月後には無感情になるネタをまさかそのフォルダに保存することはできない、無感情になるなら保存する必要がそもそもない。
どんな生きものも、一定の「刺激」を受ければ、「興奮」するようにできているのだ、それは生存本能であって、生存本能がわれわれをコントロールするインターフェイスが「感受性」だ/1.感受性がヒートして悟性をクラッシュさせると、人は「醜態」におよび、2.悟性が高まって感受性を超克すると、人は「荘厳」におよぶ、このうち後者の体験が「感動」に当たるのだが、この体験が得られないので、多くの人々は3.感受性をなるべく露骨化せず、地下に埋め立てて過ごす、という暮らし方をしている、それでも感受性そのものが死に絶えるわけではないので、人はこっそり人に知られぬところで悪趣味に耽っているのだ。
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