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恋あい論への準備2
「感動」と「感受性」は反対で、相克の関係にあるということ。
それで、単純に言えば、「感動」が大事です、ということになるのだが、「感動」ということが、そもそも人によって多大な差分がある。
言わずもがな、同じ映画を観、同じ音楽を聴き、同じ言葉に触れ、同じ景色の中に立ち、同じこころを向けられたとして、全員が同じ「感動」を得るわけではない、むしろ大半の人は「何らの感動も覚えられない」ということを、今はもう認めてかからねばならない。
同じ映画のワンシーンから、百万の感動量を得る人もあれば、なんとなく、三か四ぐらいの感動量を、得たような「気がする」という人もあるのだ、そしてそのワンシーンを鮮やかなまま二十年抱えて生きる人もあれば、二時間後にはすっかり忘れ去っている人もいる、それぐらい「感動」ということには人それぞれに程度の差がある。
別に恋あいが偉いわけではないが、少なくとも、映画のワンシーンから得た感動を、二十年抱えてゆかない人は、誰かと結婚したとして、二十年も愛し合うことはムリだ、別にそれが悪いということではなく、事実上・生理的なものとして、感動でないものは二年も保たれない、ジェットコースターの興奮を二年間も覚えている人がありうるだろうか? これは善悪の話ではなく、ただ「感動」と「感受性」の性質は異なるというサイエンスの話でしかない。

恋あいというと、誰もが恋あいを体験する権利と素質を持っているように誤解されているが、そんなことはまったくないのだ、いくつもの恋を胸の最奥に抱えてゆけるということは、同じようにいくつもの歌、いくつもの物語、いくつもの光景、いくつもの映画、いくつもの小説、いくつもの言葉、いくつもの音楽、いくつもの場所を抱えてゆけるということで、そんなことができる人は、ともすれば一日中探しても一人も見つからないことのほうが多い/一日中で見つからないのは当たり前だが、これが十年間に及んで一人も見つからない場合、さすがに人は命ある生を投げ出すだろう。
われわれには生存本能があって、生存本能がわれわれを操るインターフェイスである「感受性」、この「感受性」は誰でも持っているのだ、平等で普遍的に与えられているのはこちらのほうであって、恋あいの素質が与えられているわけではない、どの男性だってエロ本を買うし、エロ本を買うなら、よりエロいほうを買うというだけだ、このことについては「誰だってそう」と言っておおむね差し支えないだろう。
しかし、なぜかわからないが、われわれは自分を「感動ゼロ人間です」と堂々と名乗って認めるということを、なかなかしがたく、抵抗を覚えるものだ、それで「感受性」を「感動」にすり替えて自己主張するのだが、このわけのわからないシステムから脱却する必要がある/どう工作しても、感動と感受性は互いに外貨ではないので、一方を一方へ両替することはできない、それぞれの国内でだけ通用する内貨であり、感動と感受性は性質が違うのみならず「国」が違うのだ、それぞれは別世界に住んでいると断定してかまわない、一方の国の大富豪は、他方の国での大富豪にはならない。
感動と感受性というのは、それぞれに特有の内貨だから、それを使うときそれぞれに特有の、目の色が出現するものだ、ふつうそのへんのおばちゃんをとっ捕まえて、「これまでに何に感動してきましたか」と問い訊ねたとしても、「感動」なんて特殊なものは語られてこないのが当然だ/サンプルにはゾンビ映画を観よ、ゾンビはただならぬ眼光を発しているが、その眼光に「感動」の光はない、そりゃゾンビだから当たり前だが。

多くの人が、自分の眼光を、学生ではなくゾンビに近いと自認しているから、ハロウィンに大量のコスプレが出動するのだ。

若い人は特に、自分に「似合っている」「似合っていない」をすごく気にするので、自分が学門の書をひもといて目を輝かせているフリをするのが、根こそぎ「似合わない」と見切っていて、代わりによく似合うゾンビのコスプレを人前に開陳するのだ/そりゃ、学門に舌なめずりしているところを「キマっているねえ」と褒めてもらえるなら、誰も好きこのんでゾンビのメイクなんかしない。
「これまでにどのような感動を得てきたか」と言われて、即刻「ないです」と答える人はまずいない、ほとんどは「そうですねえ……」といって、落ち着いて考えるふりをしながら、焦って考えるものだ、いくら考えても無い袖は振れないはずだが、なんとかその場は取り繕うだろう/恋あいに限らず、そこに感動を得て生きてきたということは、「これまでにどのような感動を得てきたか」と言われて、即刻「お話しできないことばっかりでね」と答えるということだ、恋あいの可能性がゼロということは、ありふれたことであって恥じることではないが、同じ恋あいを考えるなら、可能性がないインチキの道筋を頼るべきではない、恋あいのゼロは恥ではないがインチキに縋るのは笑えない恥だ。
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