☆いい女☆で行こう!

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病床模索2/得ることがなかった魂の整合

千の物語とつながって生きている人と、「物語とかぶっちゃけ無いわぁ」と生きている人とでは、魂の大きさが違う。
魂の大きさが違うが、そんなものは観測不能なので、平等っちゃあ平等、というふうに扱うしかない。
大きさが違うので、結果的に、ダンプカーと同じ車道をてくてくと歩行者が歩くことになるのだが、歩行者はそれで「どこか落ち着かない」「しっくりこない」「おびやかされている気がする」と感じている、そりゃ当たり前だ、「すぐペシャンコになる」というのも当たり前だ。
歩行者とダンプカーのように、観測可能に大きさが違うのなら、話は簡単なのだが、魂うんぬんなんて言い出したら、話はいくらでもこじれるのだった。

本来、先輩と後輩、教師と生徒、師匠と弟子、年長者と年少者、男と女は、原則として、魂の大きさが違ったのだと思う。
それで、上下関係というか、本質的には上下ではない、魂の大小を根拠にした、人間の関係があったのだと思う、それがことごとくうまくいくというわけではなく、うまくいくかどうかはケースバイケースだったとして、そういう魂の関係はありえたのだろう。
僕はこれまでに何度も、若い女の子をちやほやして、当の女の子が上機嫌なまま、結果的にメチャクチャになっていくところを目撃してきた/僕がこれまでつながってきた物語の総量と、未だ物語とのつながりが希薄な二十歳前後の女の子は、魂の大きさが違うはずだが、しかし若い女の子はちやほやされて上に立てられないと価値観と思想の上でガマンならないので、僕はそのように取り扱ってきた、でもおそらくその性分を根ざされた現代の女の子は、何ら幸福な要素を与えられたのではないと今になって思う。
魂の大きさに感応して、もっと違う関係、もっと違う付き合い方がありえた、でもそれは、すでに得られることがない概念上のものだと覚悟せねばならない、今さら魂の大きさなどに帰順することはできないのだ/それでも、ただ知っておくべきだとは思う、本来は魂の大きさによって、もっと違う、整合して穏やかな、大切な実りの関係がありえた。

かつてゾウの背にリスが乗って、ゾウの雄大が尊ばれ、リスの敏捷がよろこばれた。

本来、男から女へ、女から男へ、先輩から後輩へ、後輩から先輩へ、向けられる態度、語られる言葉が、無数に、無尽に、絶え間なくありえた、だがこんにちでは全員が己の魂のサイズを「最大級」と前提して振る舞わねばならないので、すさまじい無理が出てくる/リスはゾウと魂をつなげば、己がゾウのふりをする必要はなくなるのに、そうしたつながりや営みはすでに失われたやり方のものだ。
何につけ、「本来は違う」と、ただ知っておくべきだ、われわれは魂の大きさという基準を奪われたので、もう海を見てさえそれを「大きい」とは体験できなくなっている/「海は広いな大きいな」はむろん、物理的な大きさを指して歌われるのではなかった。

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