☆いい女☆で行こう!

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この世界に歌手は一人しかいない

んどん伝わらない内容になっていくが、どんどん書き話してしまおう。
人類史上、何百あるいは何千という数の、たとえば「歌手」が誕生している、彼らはなんとなく別次元の領域に到達していることがわかる、だから彼らの歌声は時間が過ぎても「古く」ならない。
そして、そういった「歌手」になる人というのは、「わたしが歌手になる」ということで成り立つのではないのだ、なんというか……おどろくべきまったく別の現象がある。
人が歌手になるのではなくて、「歌手」という、人ならざる何か別のモノが、人の身に入るのだ、「歌手になっちゃった」というのはいわば「脚気(かっけ)になっちゃった」というようなことで、「歌手」というわけのわからんものが「入ってしまう」ということなのだ。

だから、なんというか、「人が訓練して歌手になって唄っている」ということではなくて、「歌手が唄っている」のだ、<<人が唄っているのではない>>のだ、人の中に入ってしまった「歌手」というわけのわからん主体が唄っている
だからおどろくなかれ、「歌手」というのは、それじたいは一人しかいないのだ、正しいカウントは「一体」なのだろうが、あえて「一人」とカウントするほうがわかりやすいかもしれない/<<この世界に歌手は一人しかいない>>、そして実は歌というのも、<<「歌」という一つの歌しかない>>。
よって、何百何千と出現した「歌手」というのは、一人の「歌手」という存在が、さまざまな人の身に入って現れたということにすぎない、具体的歌手は何百とあっても、「歌手」というのは存在として一人なのだ/そして、人はこのことの背後に何かしら、人ならざる "カミサマ" を視た、このカミサマを何百何千の具体になぞらえて見ると、「八百万」の多神教になり、このカミサマを「けっきょく根源は一人、あるいは一体の存在でしょ」とカウントすると、GODの一神教になる。
一神教の立場から考えると、GODは全知全能なので、一体でもあれるし多体でもあれる、「一体」と「多体」の状態を同時に取ることができる、だからこそ全能だ、このように一神教と多神教は実は何ら矛盾していない/ところがわれわれは、この両極の状態を「同時」に取れる(量子状態)ということが、認識機能の上で了解できない、このことを仏教では人間道のカルマから生じる「識」という因果だと捉え、聖書では「善悪の知識の実を食べたからだ」と説明している。

唄うということは、数千の歌手が同時に唄うということでしかありえず、歌というのは、数万の歌が同時に唄われることでしかありえない。

一人の歌手が一つの歌を唄うということは不可能なのだ、いわば千手観音の一つの手が動こうとするなら、それは「千手観音」が動いてくれないと話にならない(当たり前)ということ、そして千手観音が動くということは、そこに千の手があるということだ/「歌手」といって「手」の字が充てられているのだから、手が一本しかないという前提は前もっておかしい、そしてもし「手」を一本だけ切り取るならば、切り取った手はもう手の機能を持たなくなるから、切り取られたそれが「歌手」の機能を発揮することはありえない。
もちろん切り取って、「わたし」が唄うということ、つまり記憶したメロディと和音とリズムをなぞって、そこに情念をこめて唄うということは、誰にでも可能だが、それが人類の知る「歌」になることはありえない、どれだけ刺激的にその歌モドキをしたところで、それは一時的に流行したり人の耳に残ったりすることはありうるにせよ、時間の経過と共に「古く」なり、「飽きる」という現象に埋もれていく、それは人間の身体が刺激に対して「耐性」を持っているからだ、刺激は古くなってゆき飽きていく、それは人類の知る「歌」という現象とはまったく別のものだ。

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