☆いい女☆で行こう!

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識の因果(善悪の知識)と量子状態と「観測」について
んなんだこの記事タイトルは……もう完全にヤベー奴の話だが、しょうがない、もうそれが視えてしまっているのに、ごまかしてもしゃーないだろう、ウソを書き話すよりはせいぜいマシだろうと信じる次第なのでよろしく。
ここに、百階建てのデパートがあったとする、するとあなたは何階に居ますかという話になって、「えーっと、三階にいます」という感じになる、そこで僕は「おれは一階から百階までの、すべての階に同時にいます」と嘯(うそぶ)く、すると「は? イミフなんですけど」ということになる。
このことは、わけのわからん妄言のように聞こえるが、そうではないのだ、実はこれはカンタンな話であって、多くの人がすでに知っている現象でもあるのだ、なぜならあなたは数学の授業で次のような言い方を聞いたことがあるはず、「たろう君は、100階建てのデパートの、n階にいます」、この表現だとどうだ、このときnは1から100までの数値を取り得るのだから、たろう君は100階建てのデパートのすべての階層に「同時」に存在することになる。
「でも、たとえばn=3のとき……」と言い出すかもしれないが、そのときはもう、たろう君を三階で「観測」してしまっているのだ、だからたろう君はその観測時点でもう量子状態でなくなっている、量子状態でないたろう君がヨソの階にいたらオカルトだ/このように、量子状態というのは何もむつかしい話でなはいし、実際にこの量子の性質を用いて量子コンピューターが実用化に向けて開発されているのだから、このことに「でも……」とか言い出しても、もうしょうがないのだ、難癖をつけるならばボーアあたりの量子論の起源から反発するしかない。

あらゆる宗教は、基本として「わたしはどこから来たのか」および、「わたしはどこへ行くのか」を問いの第一にしている、この問いそのものは子供だって思いつくものだ、「ぼくはおかあさんの子供になるまえ、どこにいたの?」「死んだおじいちゃんはどこへ行ったの?」/この問いかけに対し、まともに勉強していない人は、強引なおとぎ話をブッこんで「わかったフリをしろゴルァ」と恫喝したり、あるいは「無からドーンと生じて、死んだら無にドーン!! 死んだら無!! 無!!」と、理論的でも何でもないことをブッこんで歌舞伎町で血を吐いて死ぬのだ、考えてみればなかなかメチャクチャな話だ。
われわれが、「どこから来た」「どこへ行く」ということが、いつまでたってもわからないのは、われわれの「認識」および「理解・了解」という能力が、どうしても量子状態を捉えられないからだ/われわれの「認識」という能力は、量子状態を終結させることにしかはたらかないので、<<たろう君が何階に居るか「観測」することでしかたろう君の存在を認識できない>>、認識しなくてもたろう君は存在しているのだが、その存在を認識しようとすると、「たろう君は三階!!」と量子状態を終わらせて認識するしかないのだ、これは「認識」という昨日の性質と限界を示している(当たり前)。
「量子状態」というと、わけのわからんどこかのヨーロッパの研究室の粒子加速器の中の話だと思われているフシがあるが、そういうことではない、われわれの周囲は理科で習ったとおりにすべて「原子」で出来ているのだが、原子というのは原子核の周りを電子が回っているという状態のものだ、理科で習ったとおりなのだが、その電子が量子状態で存在しているのだから、量子状態というのは身近も身近、われわれの世界に量子状態でないものは存在しないというぐらい量子状態は身近だ、たろう君がn階に居る(全階層に同時に居る)というのと同じように、電子も座標(x,y,z)の取り得る全範囲に同時に居るのだ、わけがわからん話だが、傲る勿れ、われわれの「わけがわかる能力」の程度が実はショボかったということだ。
かくして、わたしの魂はどこから来て、どこへ行くのか、その魂の拠点にa(1)〜a(n)の番号を割り当てたとして、量子状態である魂はその全拠点に同時に存在しうる、a(1)からa(n)まで並んでいるんじゃねえよ、それを並べるから「時間が流れている」という錯覚に陥る/物理の先生に聞いてこい、おれが理に適っているのであって、「???」の人が理に適っていないのだ、理に適っていない奴が理性的なフリをするものじゃない。

わたしは「アハム」であって、同時に数百億の形でありえて(量子状態)、それが同時だから「一つ」である。

と、おれが言っているのじゃない、古代インドの学門の奥義書、ウパニシャッドにそう書かれてある、われわれが安倍総理を「観測」するから、そこに観測対象たる安倍総理が出現するのであって、これは観念論の話ではない、昔から哲学というと観念論(唯識論)と唯物論が不毛に揉めるだけなのだが、識よりも物よりも先の事象が存在しているということなのだ、量子状態がさまざまな形の「存在」を同時に取るというだけにすぎない、それが何か「産み出されている」「作り出されている」というふうに体験されるから、その事象を神道では産霊(むすひ)と呼んだ。
ウパニシャッドの成立時期を鑑みると、「アハム」は聖書の「アダム」に由来しているのかな、とも察せられるが、僕は学者ではないので知らない、とてもじゃないがそんなことまで追跡していられない、たろう君はn階に居るのだが、たろう君もアハムなので、アハムはn階に居ると言ってもいいだろう、それを「観測」すると、たろう君になり、三階になり、そのときにはもう量子状態が終わっている、量子状態が終わるとわれわれは「認識」して「理解」して「納得」する、そして不満がるのだ(自分でやっておきながら不満がるなよなぁ)。
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