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「ピンと来る」という現象の深い背後2

ともと「趣味」というのもそういう意味だ/六道説においては、人間道・天道・修羅道が「三善趣」であり、餓鬼道・地獄道・畜生道が「三悪趣」とされている、そして「趣味」というのはそれぞれの道と因果の「趣きと味わい」ということだ、「おれの趣味なんだからほうっておけよ」というのは、「おれの道と因果の趣きと味わいなんだからほうっておけよ」ということになる、もちろんほうっておくべきが大原則だろう。
子供はポケモンが好きで、昔でいえばビックリマンシールが好きだが、それは子供がガキであって餓鬼道であって名色の因果に支配されているから、名色の趣きと味わいに「アクティベートされる」「ピンと来る」ということだ/子供が辞書について「買って、買ってぇ〜!」と暴れてダダをこねることはまずない、名色にほぼ関係がない「辞書」なんぞに餓鬼道にいるガキがアクティベートされることはありえない、辞書とポケモンは同じ因果と趣味にない。
ところが、これが仮に「最近流行して有名になっているキラキラ辞書」みたいなものだったとすると、子供は「買って、買ってぇ〜!」と暴れる可能性が十分にある、可能性というより必然的な仕組みがそこにある、そこで「辞書がキラキラしていても何の意味もないし、こんな一時的に流行しているだけのネタを買って何に使うんだ……?」と首をかしげるのは、他の道にいる人の感覚だ、逆にいうとそこで血ヘドを吐いてでもそれが欲しいと求める感覚は、餓鬼道の因果にある人にしかわからない/「因果」の衝動は、その道に深入りしていけばいくほど、想像を絶して強烈なものだ。
別の言い方をすると――より有効で実際的な言い方をすると――、それぞれの所属する道と因果のほうが、絶対的に「偉い」のだ、そう感じて定義される仕組みにわれわれは支配されている、二次曲線と直線の交点より、流行して有名なキラキラ○○のほうが「偉い」のだ、人(あるいは生きもののすべて)はそうして、己を支配する「因果」そのものをどうしても「偉い」と実感して、自動的に帰依する仕組みの中にある/餓鬼道においては有名キラキラ、地獄道においては感受性の虫食み、畜生道においては獲得的(独占的)愛、これが他のすべてより「偉い」と定義される、だからこそわれわれは自分の往く道を変えることができない。

だが、ごくまれに例外が起こる/たとえばここに、Aさん・Bさん・Cさんがあったとする、Aさんは「流行して有名なキラキラ○○」が一番偉いと(どうしても)思っており、Bさんは「権力、暴力、性における、奴隷とサディズム」がけっきょく最強でグッと来ると思っており、Cさんは「わたしはあの人のもの、だからあの人はわたしのもの」という真理には何物も勝てないわ、と思っている、これらはもちろん、それぞれに餓鬼道・地獄道・畜生道の因果を表している。
ここにDさんが現れて、このDさんが、すべての道と因果をすでに一通り生きてこられ、すべての道と因果から離脱しかかっているようなとき、このDさんの魂にそれぞれが触れると、AさんBさんCさんも、これまで一番「偉い」と思っていた道の因果からふわっと一時的に離脱するような現象を得る/そのとき、Aさんは一時的に、「流行して有名なキラキラ○○」なんか、「別にいいか」と思っており、Bさんは一時的に、「奴隷とかサディズムとか、別にどうでもいいか」と思っており、Cさんは一時的に、「わたしが誰のものとか、誰がわたしのものとか、バカなこと言っていたものだわ」と思っている、なぜそうなるかは当人もわからなくて、ただそういう「支配からの離脱」が一時的に起こるのだ、つまりふだん自分を支配している因果に、なぜか「ピンと来なくなる」という形で離脱が起こる、だから「ふしぎ」な感覚になる。
このとき、Dさんはそれぞれの道と因果を先に生きてこられたわけなので、一般に「先生」という存在になる、そして、それぞれが支配されている道と因果を一時的に離脱して別のものを見ることができるようになるので、AさんとBさんとCさんは、このときDさんによって「導かれている」ということになる/このように、道と因果の支配を逃れて「導かれる」というのは、「先生、わかります!」という形では現れてこない、当人も何だかわからない「ふしぎ」「なんだろうこれ」という突然の形で現れてくる。
もちろんこのことは、たいてい一時的なことにすぎず、それぞれがDさんと魂のきずなでも選ばないかぎりは、二日後ぐらいには消えてなくなる、消えて無くなると元のとおり、Aさんは有名キラキラ、Bさんは奴隷サディズム、Cさんは獲得的愛の虜囚に戻る、それぞれは元の「一番偉いもの」を取り戻すので、そのときには逆転してDさんに対して軽蔑や嫌悪や攻撃(ないしは殺意)の感情を覚えることも多い、そうしてそれぞれはそれぞれの道と因果、Aさんは有名キラキラ、Bさんは奴隷サディズム、Cさんは獲得的愛の、衝動(煩悩毒)に「導かれて」いく、いつもどおりそれが彼らの「先生」となる。

子供がポケモンにウキャーとなることがヤバいのではなく、「この子、○○先生といるときは、ポケモンのことを忘れるんだわ」という現象に結ぶことが大事。

たいそうに「先生」というのでなくてもよく、先輩でもいいし友人でもいいし、ただの○○さんでもかまわない、あるいは恋人がそういう存在たりうるときもあるし、何かの著名人、歴史上の人物、物語の登場人物でもかまわない、あるいはよほど聡明な者なら直接「叡智」そのものを導きとできるのかもしれないが/何にせよ、「○○さんといるときは、ふだん支配されているものから離脱できる」「ふしぎだ、何かに包まれるようにそうなる」という現象で、実際的な「導き」というのは得られてくる、そして魂のきずなが得られた――それを選んだ――としたら、以降は基本的にずっとその「○○さんといる」という状態を継続することができる、ただしもちろん、そのきずなさえ切り離す「パニック」という現象もあるのだが、そのことはさておき、大原則として。
この実際的な「導き」が起こるとき、逆に先生たる○○さんが「偉い」と感じるのではなく、「偉い」と感じる現象そのものが消失する、「偉い」は消失するし、同時に「平等」「イーブン」という感覚も消失する、つまり「偉い」とか「平等」とかいうチャチな意識支配のすべてが消失する、その状態は高度な意味においての「愛」と捉えて差し支えない/Dさんと魂の接続を得ていると、AさんとBさんとCさんは、ふだんの因果から離脱して相互に友人でありえるが、ここでDさんを殺害すると、AさんとBさんとCさんは、それぞれ所属している道と因果が異なるので、互いに「ピンと来ない」というバラバラの三者に戻る、この三者は一般に空気を読み合ってつつがなく互いをやりすごすことになる。

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