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「ピンと来る」という現象の深い背後3

から、安易な「平等」の思想は、実は底なしに恐ろしいのだ、何かを果てしなく「偉い」と崇めたてる思想ときっちり同等に、「平等」という思想は怖い。
「平等」といって、本当に完全な平等に到達できれば話は別なのだが、無理なのだ、たとえば共産主義思想は平等の思想を追求しようとしたのだが、まず「共産主義思想が偉い」と思っている時点ですでに平等ではない、何かが「偉い」のだと捉える事象が発生している時点ですでに平等は破綻している/何かを「偉大だ」と認める悟性・理性と、何かを「偉大なのですううう」と崇めたてる心理は別だ、後者のほうは思われているより遥かに暗黒の度が深い。
まあそれはいいとして、「平等」という安易な思想は恐ろしいのだ、「平等」といいながら、たとえば初心者よりヴェテランのほうが「上」で「偉い」と思っている、これが闇だ/僕はポケモンゲームをやったことがないので、ポケモンゲームについては初心者だ、それに比べれば近所の子供のほうがヴェテランだろう、そうなると必ずポケモンゲームについては子供が僕を「導く」ことになる、そのようにして子供の側には自動的に「偉い」が発生する。
僕だって、ワークショップの先生をやっているのだが、僕がそうした指導をするからといって、僕のほうが「偉い」ということはまったくない、そのことについてはウソ発見器にかけていただいてもけっこうだ、何しろ初めから「世界のボトムをお見せする」と申し上げている/ワークショップといって、うんこメンバーとうんこ先生がやりあっているだけなので、誰がどう「偉い」というようなことはない、そしてそんなトンチキな先生はふつう健常の世の中にありえねーから、せめて僕だけでもと、奇妙なことを続けている。

われわれは、何かをしながら生きており(そりゃそうだ、停止していたらそのまま干からびて死ぬ)、何かをしながら生きているということは、常に何かしらのアクティベートを受けて行動している、それを認識していようがいまいが……だから大前提として、われわれは何かしらの "アクティベート元" に「導かれ」ながら生きている、われわれに導きや先生がいないということはないのだ、常に何かに導かれて生きており、何もしなければ自動的に己のカルマと道と因果が己の「先生」になっている、われわれはそういう仕組みの生きものだ。
よって、われわれのいう「平等」というのは、極端な例外を除いてはことごとくウソにすぎないのだ/共産主義者は共産主義を「偉い」として、それを先生に立ててアクティベートされていたのだし、男女平等を唱える昨今のムードは、それが「偉い」としてアクティベートされている、それでいえばファナティクな様子の宗教者あるいは信徒たちだって、それが「偉い」としてアクティベートされているわけだ、だからこそわれわれは、ファナティクな様子で演説している街頭の宗教演説を立ち止まって聞こうとは思わないし、共産主義活動の経験者は「あれはひとつの宗教だった」とこぞって言う。
さてでは、何をどうせねばならないかというと、奇妙な話、<<強いアクティベートを受けている者が、非アクティベート者に導かれなくてはならない>>、強いアクティベートの中でそれをする者は、アクティベートのない中でそれをする者と、共同にそれをさせてもらって、同じ営みの中でアクティベートを消失させねばならない/表面上、<<偉くない人が偉い人を導く>>のだ、なぜならその背後で、一方を「偉い」と実感させているのは「因果」だからだ、ここで因果の側の仕掛けとしては、偉くない人が偉い人を導くという方法を採られると、大変困るという実情がある、つまりこのやり方でわれわれは仕掛けられた獄を打ち破ることができる。
たとえば僕がやっているワークショップでいうと、その参加者は、プロのダンサーであったり、合気道の有段者であったり、元ラクビーの選手であったり、体操選手であったり、舞台で唄っているシンガーであったり、社交ダンスで世界大会に出た人だったり、ギターを弾く青年であったり、元あるいは現役の演劇人だったりする、そうした人々の中で、僕だけが何一つアクティベートを受けていない者なのだ、だから彼らは僕と一緒に何かを営む必要がある、僕ほど偉くない人はなかなか世の中にいないものなので、彼らが何かを営んでいくのにアクティベートを抜いていくのにはピッタリなのだ/すべてのことに、「ピンと来る」というアクティベートは本当は要らない。

すさまじいことを、「何もしていない」という状態のまま営むべし。

人は因果の中にいて、それぞれの所属する道と因果によって、強制的に「ピンと来る」、強制的に「アクティベート」を受けるということの中にいるのだ、もし一般的な意味で僕を愛してくれる女の子がいて、その女の子と僕が一緒に手をつないで歩こうとするとき、どうしても強いアクティベートを受けている彼女のほうが「偉く」て、アホまるだしの僕はどうしても、責めるに値する対象にしか見えないだろう/一般に、われわれは強く「何かをしている」ほうを偉いとし、「何もしていない」ほうを愚かで低劣だとみなすものだ、 "何もしていないのに女の子と手をつないで歩いている" というようなことはあまりにも「ピンと来ない」、それはまるで "何もしていないのに襟首を掴んだ男がすっ飛んでいった" ということと同じくらい、見ていて「ピンと来ない」。
ただそれにしても、ピンと来ないまますっ飛んでいった当人は、そのとき何を学んでいるだろう? アクティベートのまま掴みかかると、ピンと来ないものによってすっ飛ばされた、あるいは強く情熱的な愛と当人が信じるところのものによって、手をつないで歩いてみた、するとなぜかピンと来ないものに包まれていった……このことが繰り返されると、これまでピンと来ていたものを、本人が見失ってゆく、アクティベートに力を尽くすほど、それは「???」に包まれてゆき、掴みかかる側が「自分で何をしているのかわからなくなってきた」、手をつなぐ側が「何をやろうとしていたのかわからなくなってきた」という状態になっていく/ここに分水嶺が生じる、それは決定的な分水嶺だ、1.目の前の、何もしていない人がわたしを導くのか、それとも、2.強く何かをしているわたしが、目の前の何もしていない人を導くのか、こうしてわれわれのあいだに「導き」が消えることはなく、一方の導きは単純に否定されるのではなく、必ず逆方向へ導き返そうとする対抗力をもって迎えられることになる、それはわれわれがまず数学的に厳密な「平等」になど至れないからだ。

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