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「物語」が視えなくなるということ2/ "ブタのエサにもならないもの"

般に、童話を読み聞かせるのは童子のうちだが、現代の童子が童話の物語を「視る」ことができるのか、僕は知らない。
たとえ童子であろうが、関係なく、生存本能への刺激が本体に「力」を選ばせるとき、もうその当人は「物語」を視ることはできなくなる/これはもうただの生きものの仕組みだ、力は物語を分割・解体する。
生存本能は、すべての動物にあるので、生存本能から「力」を選んだわれわれの身体(力んだ身体)というのは、触れてみると直観的に「大切なもの」という感触がしないのがわかる/「人」という独特の感触、「物語の中にある "人" 」という感触が消えるのだ、これが具体的に消えるのだから不思議なものだ。
「人」という独特の感触が失われると、それはただの骨や節や筋肉の集合体という感触に転じ、その中に、おだやかでない「血」が流れているのがわかる、呼吸はしているが、獣だって呼吸はする、生き残ろうとする遺伝子の本能はむしろ獣のほうに顕在だ/われわれは「人」を大切にしたいと望むし、もし「人」そのものがそこにあれば、だいたい無条件で大切にするのだが、そうした「人」でありつづけるのはそんなに容易なことではないようだった。

これは、僕がひどいことを言っているのではなくて、僕が奇妙なことを言っている、というような状態だ。
というのは、僕がこれまでのことを振り返るに、そういう意味での「人」の感触じたい、これまでに触れたこともなければ見たこともない、という人が多いようだからだ。
実際、これまでに何度も(何度、というような回数で言えるようなことではもはやないが)、僕のところにやってきた人は、僕そのものを「何これ……」と不思議そうにつついてみたり、触ってみたりすることがほとんどだったからだ/自分で言うのもアホみたいだが、この「実物」がすでに絶滅危惧種なのだと思われる、危惧種が必ずしも絶滅するというわけではないだろうけれども。
こころあたりのある人に、あえて説明しておくと、あなたが触れたのは単に「力みのない身体」ではなく、実は「物語」だ、「物語の中にある "人" 」の感触だから、すーっと吸い込まれるような、包み込まれるような、不思議な感覚になる/あなたが生存本能を刺激されて「力」を選ぶとき、あなたは僕に触れられなくなり、あなたは自動的に僕を分割・解体・破壊・攻撃することを選ぶようになる、それはあなたを決定する仕組み、あなたの知らないあなたの仕組みなのだ。

人が人に触れたとき、1.意志、2.こころ、3.自律神経のやりとりが起こり、ごく例外的には、4.物語のやりとりが起こる。

1〜3は、生きものとしてのやりとりだ、これだって平和にあたたかくやりとりが為される必要がある、意志がぶつからず、こころが通い、自律神経が援けあう必要がある/けれどもその三つを万全にしたとて、物語の中につながることにはならない、物語の領域はまったく別の次元にある。
生体に原初から具えられてある本能を、生存本能と呼ぶのならば、その生存本能の対極に、「存在本懐」と呼ぶべき何かがある、これらは生体に具えられてあるのではなく、魂に具えられてある、だから具体的には到達点でありながら、魂としては己の "帰参" するところになる/生体は生存本能を固持し、魂は存在本懐を希求し続ける……あくまで構造上はそうだが、現代のわれわれ自身とその周囲は、このところひたすら生存本能をバッチバチに刺激するばかりで、魂などという "ブタのエサにもならないもの" に一ミリの価値も認めないのが主流だ、物語が視えなくなるという現象は、それが生存本能として「ブタのエサにもならない」と視えることで起こってくる、このことは加齢と共に進んでゆき、青春の十五年後にはすべての物語をブタのエサより下等なものにみなすようになっている、もちろんそれが生存本能としては正しいのだ、われわれはそのように生きているのだ。

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