☆いい女☆で行こう!

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エンジェルAの仮説

に、女性が、「やさしい男性に愛してもらえることを普遍的に希求する偏った存在」だったとする。
あくまでも「仮に」だ、このご時世、この「仮に」を付け忘れようものなら、四方八方から袋だたきにされてしまう。
この、「仮に」思考したものを、仮説Aとしてみよう、するとこのとき、いわゆるセクハラ男は、この仮説Aに背いた男ということになる、つまり彼は「やさしい男性でもないし、女性をやさしく愛しもしなかった男」ということになる。
一方で、いわゆる極北のフェミニズム女性も、この仮説Aを否定する勢力ということになる、「愛して "もらえる" などという偏った表現はありえず、その思い上がった誤解じたいが不快そのものであり、惨死をもってつぐなってもらいたいと熱望するよりない」/仮説Aを否定するというよりは、むしろその逆、女性は「少しでもマシな男を隷僕に従え、それにも及ばない男のすべては軽蔑して焼き払う正義の存在」と唱えるのが、一般的な極北フェミニズムの主張だ。

かよわい女性に、にじりよってセクハラをしでかすような男は、低級で醜悪であり、その被害者から見れば、低級であれその男は「悪魔」そのものに見えるだろう。
そして、極北フェミニズムの女性も、僕などに対してはただちにガソリンをかけて焼き払って哄笑したいと欲するからには、大いなる正義か、もしくは悪魔のたぐいに思えておかしくない/よってこのことは、「仮説Aに背反ないし否定をすると、悪魔の行状を帯びる」という性質に結ぶことができる。
あくまですべて「仮説」でお話ししているが、いちおう仮説A、女性は「やさしい男性に愛してもらえることを普遍的に希求する偏った存在」だとする話は、聖書に記されている言い分でもある、この聖書の言い分に反したら悪魔の行状を帯びるのかどうかは、もちろん聖書の専門家でもなければ神職でもない僕がおおっぴらに答えることはできない。
ただ、たまたま個人的に「やさしい男性に愛してもらえることを普遍的に希求する偏った存在」だった女性Aがいたとして、この女性Aが、やはりたまたまやさしい男性に「愛してもらえた」という出会いを得た場合、この女性Aと愛する男の存在は、現代における男女抗争について蚊帳の外になる/さしあたり言い得ることは、現代のセクハラ勢力も極北フェミニズムの勢力も、こうした女性Aの存在を捨象することを土台にしている、セクハラ勢力も極北フェミニズムの勢力も、その点については野合して「その例は持ち出すな」と同舟せざるをえない。

セクハラの反対は「天使」で、極北フェミニズムの反対も「天使」だ。

だから現代の男性は、アニメやアイドルのパフォーマンスに「天使」を探し、女性も同様、マンガやスポーツやイケメンアイドル青年の中に「天使」を探している/セクハラ勢力とフェミニズム勢力が向き合って居並んだとき、もちろん相互にそこに「天使」を見つけるということはありえないだろう、お互いに滅ぼすべき悪魔しか見つけない(そりゃ当たり前だ)。
よってこのことは、「架空コンテンツの中に "天使"  を見つける度合い(偶像崇拝の度合い)は、実際の男女で悪魔闘争をする度合いと比例する」と捉えることができる、あくまで個人的な仮説でしかないが、僕はこのことをエンジェルAの仮説と呼んでこっそり覚えておくことにする。

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