☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
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やさしさと粗挽きと細引き
ークショップの打ち上げで、鳥貴族で飲み会をして、ゲラゲラ笑って、ウダウダ話した/「グラビアアイドルの反対は星空だ」と僕は言った、「恋あいというなら、女を見て星空が視えなきゃいけない、女を見てグラビアゆっさゆっさを見ているようでは、それは恋あいではないなあ」。
「やさしさ」という、ナゾの現象がある、「やさしさ」はそれだけでテーマであり、それだけで作品たりうるし、それだけで存在の定義になる/だが「やさしさ」の正体が何なのかは、未だ知れない、やさしくしようという意図だけでやさしさに到達できるなら、誰だって洗顔のついでに済ませていよう。
僕は「やさしさ」という、ひとつの世界に、いつでも逃げ込めることを知っている、それはやさしい誰かのところに逃げ込むというのではなくて、やさしさそのものに逃げ込むということだ、まるで細かい砂粒が漉し器の目を通り抜けてしまうように/それが何なのかはわからないが、ふっと細かい砂粒になって流れ込む先だということは知っている、小さすぎる砂粒は、善悪の尺度最小より小さいので、もはや尺度という事象で計測することができない。
僕は別に、誰にやさしくしているつもりもないのだが、みんな何かが「やさしい」と言う/「本体がやさしい」「そりゃサブパーツがやさしいとかねーよ」「それはもう文章にも滲み出ている」「へえ、そうなのか」、やさしさというのは、僕にはよくわからないが、僕は逃げ込める先を知っている、そしてその逃げ込んだ中からしか何かを書いたり話したりすることはできないということも、経験上いやというほど知り抜いている。

こういうことを言うと、ちゃんとした人に怒られるので、ナイショの話だが、夜明けには氷の張った世田谷公園にいって、半年間お世話になったことのお礼に、お参りする具合にした/そこで数分だけ、来年やりましょーねというネタで、合気道でいうところの一教と二教をやった、特に二教がきれいに決まると「ふんおっ!? なんじゃこれ!」となるので面白い(二教に痛みはまったくない)(もちろん有段者に掛けているのであり、ただのか弱い女性をいびっているわけではない)。
「どこでこんなワザを……」「なんでか、寝て起きたらわかっていた、やり方を知っていた」「ふえええ」「相手は打つ部分や掴む部分が、イケイケになるわけだから(その部分の感受性を頼りにするわけだから)、この部分は殺してはいけない、この部分はどんどんいかしてやればいい、だから二教のとき、相手の手は下がるんじゃなくて浮き上がるんだよ……それで、反動でこうしてやると、自分で勝手にポーンと飛んでいく、ほいっ」「うおっ!?」、まあ一応メモとしてそういうふうに書いておこう、こういうのは忘れるたぐいのことではないけれども。
僕は、「やさしさ」という現象を、パラメーターではなく「次元」という単位で知っている、「やさしさ」にどのていどの段階がありうるのかは知らないが、少なくとも星空が視える次元まで到達しないと、言葉とか物語とかは視えてこない。
「星空が視えて、星空の下に人が視えるようになると、 "人" というのが、物体ではなく物語の中にいるのが視えるようになる」「……今、ふと思ったのですが、あなたはわたしを、あくまで世界と切り離さずに見てくれるように感じるのです。それがやさしいということかもしれません」「あーね」。

粗挽き ← 中挽き → 細引き → やさしさ

なんだろうか、仮に魂に、何かしらの「凝り固まり」があったとして、その団子になった凝り固まりがほぐされないかぎり、くぐれない格子があったりするのだろうか/よくわからないが、確かに、僕は誰にやさしくしようとも考えていないが、それぞれの魂がこの世界と、物語とにつながって、みな星空の下にあるようにと、そのことばかりを考えている、それは僕の意図でそう考えているというのではなく、僕にとって考えるとか感じるとかいうことはその次元においてしかない。
端的には、誰にも「世界につながれ」と思っているのだが、特に健気に生きてきて、今もなお清潔な叫びを抱えている者は、そのまま放置されているのはかわいそうだと思うのだ、いかにも大きなお世話とはわれながら思うが/そこは年長者の義務と権利だとうそぶくことにして、僕は誰もが格子から出て世界につながることを望んでいるし、同時にそのことが、みんなが思っているような甘いことではないということもいやというほど知っている。
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