☆いい女☆で行こう!

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「言葉」は人のものではなく、「話」もまた人のものではない

般に、言葉は人の発明物だと思われているが、僕はそうではないと唱える、まあ立場ある学者ではないので好きに唱えても別にかまわんだろう/僕は言語の素(もと)と呼ぶべき、「言葉」という現象ないしは現象野が先に存在していると感じる、一般に言葉と呼ばれている言語は、その「言葉」という現象野に脳や精神や魂がアクセスした結果として出力されているにすぎない。
もちろん、人がいちいちそんなヤベーものにアクセスしていたらたいへんなので、一般的にはそんなところへアクセスはしていない、一般的には単に「記憶」の中から情報化された言語を引っ張りだして再利用しているにすぎない/だからわれわれが詩文を朗読しても、たいしてイイ感じのものに聞こえない、歌唱力以前に詩文を読み上げるという営為の事象次元が違い、われわれはしょせん言語と意味の記憶に自分のキモチを乗っけているだけだ、そんなもので真の感動が生じるわけがない(ニセの感動は生じえます)。
さてここにおいて、ちょうど年末らしくて具合のいい、新しいことをみんなに伝えることができた、これは僕自身はかなり以前に薄々感じていたことなのだが/「言葉」が人の発明品でない以上、実は「話」というのも、人の発明品ではない、これこそ一般には「はあ?」と一蹴されそうなことだが、僕はけっきょく「人」に物語を創作する能力はないと確信している。
「話」という現象は不思議だ、色んなことが、聞いていて「話にならない」ということがあるし、いろんなゲームやアニメや映画についても、何か一つの「話」としてまとまりがないというか、「ニセモノの話」にしか聞こえないということがある、それに比べるとたとえば「ドン・キホーテ」の物語なんかは、著者セルバンテスの創作のはずなのだが、なぜかあの滑稽話の連続が、「ニセモノの話」というふうには聞こえないのだ/それはけっきょく、「話」「物語」というのが、実際に人の創作などではないからだ、それはモーツァルトだろうがリストだろうがボブディランだろうが同じだ。

まだ言語になる前の、言葉の「素(もと)」なる現象野があるとして、話や物語というのも、まだ具現化される前に、その「素(もと)」となる現象野が存在している、これらの現象野はけっきょくひとつのものでしかないとも思えるので、言葉の素も物語の素も、音楽の素もダンスの素も同じひとつの根源野なのだろうが(僕はこの根源野を総括して「言葉」と呼んでいる)、まあそれはいいとして、とにかく人に話を「創作」する能力なんてないのだ、人が「話」を作れるとしたら、それは何かしら「神話」からの影響や派生、あるいは類型を帯びているときだけだ(そしてそれはけっきょく、人が創作したわけではないということだ)。
だから、何かしらフィクションの営為に向かおうとする人にとっては、ある意味究極のネタバラシなのだが、自分で何か話を創作したり、演じてみたかったりしたら、何かしらの「神話」に接続しなきゃ100%ムリだ、なぜなら「話」の出力元は人にはなく神話にしかないからだ/これってたぶん、知っている人は最後まで秘密にしているというか、秘匿し続けているような気がするが、そんなケチなことをせず、バラせばいいじゃんと僕は思う、もちろんバラしたらバラしたで、曲解して面倒くさくなったブツと人が大量発生するに決まっているけれども……
何かしら、根源的な現象野に、言語的・物語的な人が接続すると、その人がニセモノでない「話」を語りだすのだが、その語り出すものの中で、最も元型に近いものを「神話」と呼んでいる、つまり神話というものが一番、根源的な現象野を写し取ったナマ写真に近いということだ/認識不能の根源野から、ギリッギリで認識可能なものに落とし込むと、それはたとえば神話になるということ、これが原理なので、この原理から逸脱したほうへ「創作!」とやる人は、理論的に筋が悪くなる(かといってもちろん、神話に似せただけというのでは、その不誠実さは呪いでも受けそうな気もするが)。
まあ何にせよ、われわれの知りうる「話」という現象は、実は人の創作ではなくて、根源野から神話を経てわれわれの末端に現れているにすぎないということ、図式化するなら[根源野→神話→ナゾめいて荘厳な話→わかりつつミラクルな話→俗っぽさの中にも光がある話→光がないが故に俗そのものが表される話]というような感じになる、この構造の中にないものをどうひねくってもそれは「話」にも「物語」にも「ストーリー」にもならないし、その中に登場する「人」というのも存在しえない、全部がニセモノのツクリモノになってしまう。

数々の物語の中心には、必ず神話、もしくは巨大なデーモンがある。

この場合、デーモンというのは必ずしも悪いものではなくて……というのは、デーモンだって本当は光の国を目指しているからだ、ただ安易にデーモンの力を借りると、自分の身や精神が持って行かれるので、原則としては神話を基準に取るべきだと僕は思う(といって、デーモンだって神話の中からしか登場しないものだが)。
中心に巨大なデーモンを置くと、実は「話」を作るのは(「話」を引っ張ってくるのは)、けっこうカンタンなのだ、でもそれがカンタンということは、何かしらの代償を支払うということでもある/中心にデーモンを置けば、デーモンは「力」の属性だから、ぐいぐい力を引っ張ってこられる、僕はこのイージーすぎるやり方に、それがイージーすぎるという点において否定的だ、つまりB級サメ映画や、残虐グロサイコ漫画と同じだな、もちろんそれらだって「力」を持っているので、トルストイの書く小説よりは即効性でウケるのだが、本質的に読んで字の如く「邪道」なやり方ということになる、漫画ドラゴンボールの中心にあるのはピッコロ大魔王でもなくフリーザでもなく、やはり「神龍」であるべきなのだ。

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