☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
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能力獲得の根源的ノウハウ
だん、「導く・導かれる」なんてことを、まさか考えないと思うが、もし「導く・導かれる」ということを正しく考えるなら、その導きというものは、「罰を与える・受けるということが、導く・導かれるということの定義」と捉えるのがよい。
この定義は、きわめて重要なもので、決して見失ってはならないものだ/もしあなたが、僕から罰を与えられるということが「しっくりこない」と感じるのであれば、何をどうやっても僕があなたを「導く」ということは不可能になる、これは導く・導かれるということを背後で支配している「定義」だからだ。
僕があなたに、「罰として缶コーヒー買ってこい」と言いつけたとき、その罰を自分が「受ける」ということがどこか当たり前に感じられるというとき、僕はあなたを重要なことへ導くことができる/それが当たり前には感じられないというとき、あなたはあくまで自力でどこかへ到達せねばならない、もしくは、他の誰かの「導き」に支配されていることに気づかねばならない。
たとえば多くの環境では、女性などは特に、成人してもなぜか親から「罰」を与えられる立場にあることが、当たり前に感じられていたりする、この状況にある人は、もはや外界の誰かに「導かれる」ということは不可能になる/現代において多くの人は、教師に対しても、先輩に対しても、あるいは自分では信じて頼っているつもりの誰かに対しても、「罰を受ける」「罰を与えられる」ということが当然に馴染んで感じられない状況にある、だから多くの人が、どう努力しても現在の自分から変化できずにいるのだ、自己の根本的変化が得られないのは、誰か導き手と「罰の授受関係」になれないことによってあらかじめ決定してしまっている。

ここで「罰」といって、シリアスに考えるのはナンセンスだ、「罰」といってもたとえば、男性が交際相手の彼女に向けて、「罰としておれが夜景を見にいくドライブに同行しなさい」という言い方もできる/こんな一工夫で、どれだけ多くの実りが与えられるだろう。
「罰」の授受関係におよぶことが、実は神聖さへの入り口なのだ、正しくよい罰を見出すというのもセンスが要ることで、感情的・恣意的な罰を思いつくばかりでは、彼には導き手の資格がない、この者は己の身分を低く落としていくだろう。
たとえば、人にあいさつをするのが苦手な誰かがいたとして、その人が自力の努力であいさつをできるようにはならないのだ、「罰としてここに立ってすべての人にひとりひとりあいさつをしなさい」と罰を与えられることで、ようやくやり方がわかるというか、やり方に「つながる」のだ/人は「訓練」によって、能力や技術を強化ないしは向上できるが、訓練によって能力を「獲得」はできないのだ、得られがたいことの「獲得」は、実は罰の授受関係を経てしかほとんどの場合得られない(自分で得られる場合は、努力の結果ではなくいわゆる才能の結果だ)。
だからこそ、いわゆる優等生のたぐいは、経験的に見て特別な能力を得てきていないということが一般的にある、それは優等生が生きていく中で罰されることがないからだ、もし極端な優等生が生涯に一度も罰される関係を持たなかったとすれば、それは生涯に一度も「教師」「先生」を得なかったということだ/マンガ「ドラえもん」で見れば、のび太にとって学校の先生は「先生」だが、出木杉君にとっては「先生」ではない。

罰の中をゆけ、そうしたら実る。

男は何かしらの罰として、男の形容で生まれ落ちている、女も何かしらの罰として、女の形容で生まれ落ちている、それが「罰」だと捉えられていないから、いつまでたってもやり方につながらない/何に対する罰かなんて知らなくていい、そんなことは意識的にはわかりっこないことだ、だが意識的にはわからなくても、われわれの魂は何かを知っている、だから魂だけはその不明の「罰」に率先して呼応する、われわれのうちに罰の中にない者など一人も存在しない。
多く、真髄の何かを獲得している人に限って、謙遜のように「まだまだ自分などは」と言うことがよくある、あれは謙遜しているのでも何でもなくて、直接の感覚として「こんなことではまだまだ罰は終わらない」ということを知っているのだ、だからそれは謙遜ではなくまったくの本音として言われている/われわれの魂は努力によって檻から出られるのではなく、罰を受けきることで檻から出られるのだ、優等生は一般に犯罪者の真逆にあるから、このことになかなか気づけないものだ。
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